私のひきこもり履歴書

勝山実さんの「安心ひきこもりライフ」という本に、ひきこもり年表というページがあって、年代ごとに、ひきこもりがどう社会に扱われていったかの変異と、勝山さんの個人史がのっていました。

これを読んで、今はひきこもり名人を名のる勝山さんも、紆余曲折あったのだなーと僕も脱ひきを試みては散々失敗してきたので、とても共感し少し安心もしました。

というわけで、無名のぼくらも、半生を振り返って、ひきこもり履歴書を作ってみませんか?
脱ひきのために自分なりに頑張ったけど、いまだひきこもり状態の人も、ひきこもり経験したけど脱ひきできた人も、他のひとの安心や希望にもつながると思うので、ぜひ少し時間をとって、自分の半生をふりかえり、年表をつくって投稿してみてください。

よろしくお願いします。

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よし、まずはわたくしから!と思ったけど、トピック立てただけで疲れて眠っちゃった:smirk:

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~マイひきこもり年表~
1981年
何の因果がこの世に誕生。

幼稚園時代
幼稚園へ行くのが嫌で泣いたりもしたけれど、強キャラの幼馴染がいたり、先生がやさしかったので無事卒園、

小学校時代
家ではゲーム、学校ではサッカーにあけくれる少年だった。幼馴染や友達もいてわりと楽しく過ごせていたが、小学生5年生あたりから母が精神を病み、家がデンジャラスな場となる。

中学校時代
母の病気は回復に向かったが、僕のほうは少しずつ病んでいき、中学3年の夏あたりから不登校になりそのまま行かず卒業する。

1998年
大検(高認)をとろうと三ヶ月猛勉強。ギリギリ合格する。
大学受験の独学には失敗挫折。

20歳になる少し前、あまりの日々の辛さに精神科クリニックに駆け込む。
21歳ぐらいのとき少し精神が安定し、バイトを始める。
22歳のとき神経症のうつと対人恐怖症状があるなかのバイトが辛くて辛くて仕方なく、やめたいがそのことも言い出せずついにダウン。
23歳のとき開き直ってサイト「ひきこもり村。」を作る。
24歳のときひきこもり支援NPOのボランティアスタッフとなり、そこで知り合った人と自助会を共同開催。
25歳のとき鍼灸の専門学校目指して予備校に入り上京。三ヶ月でノイローゼ再燃し帰郷。
大きな挫折とうつ状態でひきこもる。少し元気になっては自助会に顔出したりしたが、また落ち込んではひきこもり生活がつづく。

30歳のとき、愛猫リリィが亡くなる。なぜか喪失ハイになり、Web系の職業訓練に行く。さらなるスキルアップを測るべくプログラム系の職業訓練校にも入るが、終盤ひどいうつ状態になり行けなくなる。しばらく死ぬ。
32歳のとき、黒猫ノワを家につれてくる。
33歳のとき、今まで溜め込んでいた悲しみを癒やす体験をする。その後、なぜかパニック発作を起こし発狂入院。入院中、異世界をさまよう。一ヶ月くらいで退院できしばらく元気で、ライター講座やNewひきこもり村。を作ろうとするが、対人恐怖とうつ再燃。再び、精神錯乱し死ぬかと思い自分で119番して、医療保護入院。なんとか退院するが、長くうつ状態がつづき寝たきり生活。
35歳の夏頃からようやくエネルギーがでてきたので、再び自助会やデイケアに通い出す。筋トレやピアノの練習を始める。

2017年
当サイト「Newひきこもり村。」を作る。が躁状態がいきなり高まり数々の奇行をおかしてしまい、再び三ヶ月の医療保護入院。退院後はうつ状態でひきこもり生活中←今ここ

あまりのひどい人生になんだか死にたくなってきた\(^o^)/
まーこんなことは普通の履歴書には書けないので、思う存分ここに書くことに意義をみいだしたいと思います。ちょっと長くなってしまったけど読んでくれた方、ありがとうございました。

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なんかじわーとKeitokuさんの人生を感じた。
30歳 男性 無職

僕もかいてみたいな

なんか、Keitokuさんの履歴書を読んで、色々話せたら良いなと思った。

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Keitokuさんはピアノをやっているんだな。
33歳のときなにがあったんだろう。解放されて一気に吹き出た感じだね。
プログラムの訓練とかしてたのか。

25歳のときがすごく辛そうだ。長いトンネルのようだ。

22歳のときバイトが辛くても言い出せなかったのか。なんか分かる気がする。

大学にいきたかったのか。どんな大学にいきたかったんだろう。

小学生のときにお母さんとの関係というか、家族そのものだね。家族そのものへの、強い体験があるんだなと思った。Keitokuさんの繊細さはそこからきてるのかほほ〜ぅと思った。

幼稚園に行くのが嫌?
僕にはそんな記憶はないなぁ。何か嫌だったんだろ。家から出たくなかったのかな。母親と離れるのがイヤだったのかな。無事卒園というくらいだから、ずっとイヤだったんだな。
きっと、Keitokuさんというひとはいつもバラバラになりそうな気持ちの人だったんだな。

何の因果か…。
それはやはり、父と母ではないかな。
父と母の出会いの因果から生まれたのだと思う。
僕は仏教を思い出す。仏教にそう書いてあった。

重ための用事を. 漸く済ませてから.
ゆっくり. ゆっくり.
夕方. 果物屋の喫茶店で.
keitokuさん年表を. 読みました.

〉じわーと来るものがあって
と感想添えてあるけど.
じわーとしました.

窓の外の簡素な電飾を見て.
考え事をしながら.
ゆっくり. 商店街を.
歩いて帰りました.

過ごして来た時間.
綴って. 垣間見せて下さって.
ありがとうございます.

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ぜひ、まげまげさんも書いてみてください。ちょっと大変だけど(笑)
読んで色々話せたら良いなと思ってくれて嬉しいです。そういう自己紹介的な意味合いのトピックでもあるので:)
ただこのトピック内でいろいろ会話してたら、肝心のひきこもり履歴書が埋まってしまうし、返信を気にしての投稿だと、さらに投稿しずらくなってしまう人もいるんじゃないか・・・と思って、どうしようかと思っています。。
とりあえずこのトピ内での返信はこれ以上さけますね、反応ありがとうございました。また別のところでいろいろお話できたらと思います^^

@fluorite_xxxさんも返信ありがとうございます。
ただひたすら辛い人生の紆余曲折を書いたのに、じわーとくるものがあったなんて嬉しく思います。普通の履歴書には書けないしマイナス評価のものが、ここでは少しでもプラスになることが本当に嬉しく思うし、そういう場にしていきたいですね^^
街の写真もありがとー、クリスマスの雰囲気を家にいながら少し味あわせてもらいました:blush::christmas_tree:

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僕の歴史

保育園。僕はよく弟と遊んでいた。弟は厚紙でロボットを作るのが好きだった。その後弟は工学系の大学でロボットを作るようになる。思えばあのころから、弟の人生は始まっていた。僕はハコを作るのが好きだった。ハコを何個も作った。フタがあることが、そのうち悲しくなった。そうしてフタもないハコを作り始めた。良いハコが出来るとそれを撫で回していた。そして決して開けなかった。

小学生。勉強は誰よりも出来なかった。シュクダイというものが僕の心を焼いた。一度もまともにシュクダイをしたことがない。何度も廊下に立たされ、そのうち机も廊下に出された。つまり放り出されて、廊下で授業を受けることになった。一人ぼっちの廊下は、巨大な宇宙船の中にいるようだった。学校中の音が反響してコンピューターの電子音のようだった。僕は宇宙でたったひとりだった。
転校生。先生はいつもより声をひそめて、やや緊張しながら「みんな仲良くしましょう」と言った。僕はイライラしていた。転校生が入ってくる。クラスメイトみんながかけより、親しげに声をかけていた。僕は納得がいかず、転校生を呼び捨てにして威圧した。全員の白い目。馬鹿はほっとけと誰かが言った。それから事あるごとに転校生を呼び捨てにして叫んだ。仲良くするものか、意地だった。しかし後ろめたかった。突然、とんでもない迷惑をかけていると気づき勇気を出して転校生に謝った。いまさら何をとクラスメイトが怒るなか、転校生がもういいんだとクラスメイトをさえぎり、とびきりの笑顔で僕の顔を見てくれた。あのとき世界が、10倍にも100倍にも広くなったんだ。

中学年。おそらく僕が僕であるために、父の死はあったのだ。中学二年のころ。将来に悩んでいた。未来に悩んでいた。兄におこされ、父が亡くなったことを聞いた。ズドンと床が落ちるような感覚があった。ふわふわしながら仏間に向かうと真っ白な父が寝ていた。確かに死んでいる。父の表情から、ここではないどこかへ旅立ったことは分かった。お別れのとき…。僕にはまだお別れの準備は出来ていなかった。

高校生。勉強にまったくやる気がなくなる。面白くなかった。母に反発。遅めの反抗期と言われてイラついていた。母は偉いなと思う。どんなときも諦めずに子供を育ててくれた。僕は4人兄弟の3番目だ。母は父が亡くなってすぐ、写真立てを買ってきた。そこに父の写真を入れて部屋に飾った。いま思うと胸があたたかくなる。でも僕は嫌だった。
2年ほどひきこもる。

20歳。
ハローワークで農業をやってみたら?と勧められる。震えながら電話して2年ほど働いた。農業をやってよかった。この頃につけた体力は落ちない。

27歳ころまでマックで夜勤で働く。いつか自立を夢見ながらコツコツお金を貯める。母と二人暮し。楽しくもあり、しんどくもあった。母はいつまでも僕を子供だと思っていた。その時の僕にはそう感じた。親は親なりに、子供との距離を悩んでいた。

30歳。2年ほど勤めた製造業を辞めて休養に入る。月80時間を超える残業に耐えかねた。28歳のとき、家を出る。不安もあったが希望もあった。希望とは無謀のことである。友達の家で世話になりながら自転車で駆けずり回り、安いアパートを見つける。母に保証人になってもらうのはみじめだったが、心強かった。それから仕事がみつかる。必死だった。貯金も底を尽きていた。初めて給料が振り込まれた日、嬉しかった。なんとも言えない充実感で部屋を眺めた。

父の記憶。28歳のとき、友達と話していた。お父さんが亡くなってどう思った…。しぼるような声で、静かに語りかけられた。初めて、人間の声で人間について聞かれた僕は声も出なかった。友達は詩人だった。知らなかった。父は僕にとって大事な人だった。僕と父との間にはまだ感情が残っていた。人は泣く。大切な人を失い、人は泣く。
ひとしきり泣いて、僕は悲しみを知った。詩人の友達は紐解かれない悲しみにより深く寄り添っていた。

父は兄とうまくいっていなかった。父は兄に期待をかけ、兄は反発した。ほとんど家出同然に兄は出ていった。母は兄を支えた。父は悩んだ。
兄が出ていって2年ほどがたった。たまに兄は帰ってくるようになった。きっと寂しかったのだろう。父はある日、夕食の場で兄に謝った。「俺の育て方が間違っていた」兄も僕も、母も首をかしげながら。笑うような、照れるような。兄は突然憎しみを思い出したように反発する。素直にはなれなかった。父は死ぬ。僕はそう直感した。急性心筋梗塞という病気に前兆はない。僕は運命というものは直感するものと知った。
父は兄が出ていったあとから教育にかんする本を読み漁っていた。自分の育て方は正しかったのか。父は悩んだ。父は、自分はひとりの人生を生きていることに気づいた。子育てもそうなのだ。父はなにかひとつの病を捨てた。そして、次の世代に引き継がないよう先手を打った。兄に謝った。父は、自分で自分の価値観を変えた。

自分で自分の価値観を変える。そんな父の勇気。「あんたはあんたなんやで」と見守ってくれた母。大好きな人を憎んで、いまもどこかでもがいている兄。悲しみを教えてくれた友達。心を教えてくれた友達。僕の履歴書は、そうした人の歴史です。

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前向きに努力していくしかない

@Clineさんへ
それはそうですけど、せっかく書いてくれたのにもったいない。。
いろいろな人がいろいろあっても、いま生きているのだと知れること自体が価値を増していくと思うので。

すぐに反応できず消してしまったのなら、申し訳ないです。
復活させてくれたら嬉しいけど、だめでも振り返って書いてくれたこと、ありがとうございました。

すごい素敵だと思いました

最近このホームページをみつけて、管理人さんの履歴書を見て、思わず書き込んでしまいました。
管理人さんは、不安なこと、辛いこと、孤独なこと、たくさんあったと思いますが、どうやって向き合ってこられましたか?
私は今、孤独に押し潰されそうで、悩んでいます。

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このトピックを読んでくれて、またこのトピックに書き込んでくれてありがとうございます。このトピックは、たくさんの人に書いてもらえたら嬉しく思うので、本当にありがたく思います。

辛いことへの向き合い方は・・・、うーん、逃げたり、自分なりに真っ向から向き合ったりもしたけれど、それで精神のバランスを大きく崩したりもしたので、難しいところですね。。

今は、落ち込んで外にでれなくても、やれるようになることもあるんだ。ということがピアノを通して解ったので、今まで挫折したことをまたやってみようとコツコツやってるだけで一日が終わる感じです。何時何分からと記録して作業してると、その間はそれ以外の余計なことは考える余裕がなくなるので、それが少しは良いのかもしれません。

孤独には、自分のとってはやはり猫の存在が大きいです。犬も好きだけど。やっぱり猫は自分にとっては理想の生き物ですね。
とはいえ、誰もが猫好きというわけでもないし、一緒に暮らせるわけでもないですからね。。孤独感というのは、かなり大きなテーマですよね。そもそもこの世界ができたのは、意識があまりにひとりぼっちだったから、それで分かれていったんじゃないか?と思うほどです。

というわけで、思うままにいろいろ書いたみたけど何も処方箋にはなってないですね(笑)とりあえず、吐き出してもらえて良かったです。同じように悩んでいる人も多いと思うので。僕も愛猫が死んだら寂しくて死んじゃうかもしれない!オジさんです。

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せっかくお返事頂いたのに、何も返せず、すみません。
お返しと言っては何ですが、私の履歴書も書きますね。

私は幼少期から、繊細な性格でした。
人と深く付き合うということが、とても苦手でした。
小学校へあがり、仲間外れはなかったものの、帰宅後に一緒に遊ぶ友達は一人もいませんでした。
声をかけてくれる子はいましたが、私にはそれに答えるエネルギーがなかったのです。
小学6年生の時、あまりの孤独と、中学校へあがるストレスから拒食症を発症。
3ヶ月の入院を経験しました。
中学校ではストレスで朝嘔吐したり、起き上がれなくなったりしながら、なんとか卒業しました。
クラスではほとんど友達がいなかったのですが、吹奏楽部に所属していたことが、心の支えになっていました。
高校は、県内で2番目くらいに頭の良い高校へと進学。
ですが、ストレスが限界へと達し、3ヶ月で中退しました。
その後すぐに、定時制高校へと入学したのですが、そこへも半年経つと行けなくなってしまいました。
それから、約2年間引きこもります。
皆が大学へと進学した年、私も危機感をつのらせ、通信制高校へと入学。
高校へ通いながら、アルバイトを始めました。
高校生活は順調にすぎていき、3年目に卒業することが決まりました。
しかし、対人恐怖が強く、大学へと進学する勇気はありませんでした。
それから、いくつかのバイトを経験して、現在に至ります。
バイト歴だけでも、5社目になりますし、正社員歴はありません。
また、フルタイムで働ける訳でもなくて、いつも人との関わりが少ない環境を選んでいます。
今は、うつを抱えながら、なんとか生活しています。
本当は、自助会なんかにも積極的に参加したいのですが、なかなか見つからなくて。
私と同じような生き辛さを抱えている方と、気持ちを共有したいです。
お読み頂き、ありがとうございました。m(_ _)m

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まだ小さいころから、大分苦労されてきたのですね。。
その疲れが高校であふれて二年ひきこもったところから、危機感から通信制高校とバイトまで始められたのはすごいですね。

今も人生に強い危機感を感じているのかもしれないけど、usagokoroさんにとっては、また前に進む力にもなるのかなーと読ませてもらって感じました。

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ありがとうございます。
正直にいうと、今すぐにでもひきこもりたい気持ちなんですよね。笑
なんとかかんとか、毎日を生きています。
ひきこもっていても、そのままのあなたでいいよって環境があるのが理想ですけど、難しいですね。
これからも、ゆるく薄く、社会と繋がっていければいいなって思います。

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・小学生時代
よく覚えてないけどからかわれてたとことと好かれていなかったことは覚えている。友達0

・中学生時代
平均的なイジメを受ける
積極的にいじめてくるというよりはとにかく嫌われていたんだと思う
男子はからかいと軽い暴力
女子はゴミを見る目とリアルでモーゼの海割り状態
自分はイジメと感じているが、他のイジメ経験者に比べるとパンチが弱くてあまり吐露できないレベル
友達0

・高校生時代
頭が悪くて落ちるやつがいないといわれていた高校にも落ち、名前を書くだけで入れる私立高に入学。全寮制
この頃から無気力発動
入学試験はコピー用紙のようなものに「自分の夢をかけ」と言われたので絵を描く。以来、教師の間でネタにされる
ヤンキーと陰キャの両極端なクラスメイト
再度のイジメを恐れ、舐められまいとずっと怖い顔をしていたら「あいつは気に入らないやつを闇討ちしたらしい」という噂がたつ
おかげか、イジメられはしなかったが仲良くなれる人もいなかった
1人、自分にだけボディーブローをかましてくるヤンキーがいてお腹に力を入れてない時にミゾオチを殴られると本当に息が出来なくなることを知る
小中学生レベルの数学のテストで4点を取る
友達0

・大学生時代
先生のコネで入学が決定している大学に適当な文章を書いて面接
「文章の構成がおかしい」と言われる
九州の大学で初めての一人暮らし
自分だけの攻撃されない城を手にいれた自分は本格的なヒキコモリになる
部屋はゴミ屋敷
起きてる時間はパソコンでネット三昧
中学時代から抱いていた「かわいい女の子になれば人に嫌われないんじゃないか」という淡い浅はかな気持ちで女性ホルモンを飲み始める
大学中退

大学中退~現在までヒキコモリ
バイト経験すらなし
書けるイベントもなし
あんな環境(イジメ)に身を置くくらいなら惨めに死んだほうがマシ
人生は死ぬまでのひまつぶし。次にリアルな世界でイジメられたらそいつを殺すと思って生きている
死ぬまでに友達を作ることが唯一の夢

以上です
お目汚しご無礼

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意外と書けたな
書くことないと思ってた
といっても学校時代ばかりでヒキコモリからのことはなにもないけど

書き込みありがとうございます!

まだ物心もつかぬ小学生時代から友達と思える人がいなかった、というのは辛い体験ですね。。
中学、高校もイジメが横行している環境だとなかなか自然に振る舞えず、友達ができにくい環境にあったのだなと思いました。
そんな辛い状況でも耐えて大学まで行ったのはタフですね!

爆笑問題の太田光なんかも、高校時代は一人も友達がいなかったと本で読んだのを思い出しました。しかも、たしか一日も休まず学校に行って皆勤賞だったと思います。

今は必要ないかもしれませんが、もしイジメのある世界がまた現れたら、対抗するのに最近知ったこの本が良さそうです。

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たわごとを聞いてくれてありがとう

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