いえいえ、とんでもないです。このトピックでは仕事の面接では使えない履歴書こそ価値のあるものだからです。
というわけで、まだまだ、ひきこもり履歴書募集中ですー。
いえいえ、とんでもないです。このトピックでは仕事の面接では使えない履歴書こそ価値のあるものだからです。
というわけで、まだまだ、ひきこもり履歴書募集中ですー。
~☆★自分のひきこもり年表★☆~
1989年
この世に生まれる
2歳
意識有る頃から既に純粋にゲーム好きだった2,3歳児
幼稚園時代
最初は幼稚園に行くのが嫌だった
行き始めたら一部からいじめられた
服が汚れるからという理由で砂場で遊ばさせてもらえず
代わりに自分で遊びを作る幼稚園児だった
女の子と一緒に遊んだりもすることも多かった
卒園する頃にはいじめてた連中とは仲良く友達になれた。
小学校時代
1日1時間とゲームが制限されており
毎日きっちり宿題を終えてから1時間遊ぶ子供だった。
学校ではサッカーしたりもしたが あまり上手くなく
途中からは漫画描いて過ごす日々であった
中学校時代
卓球部に所属し 卓球に明け暮れる日々
中2の頃に塾に行かされたり
危機感から勉強しまくって成績を5教科総合150点ほど上げる
揺るぎない自信が身につくと同時に
人間賢くなっても 成績をどれだけ上げようと変われない事に気づき 徐々にメンタルが病んでいく
次第に勉強しなくなり 中3秋から不登校 無理やり起こされたり行かされたりするためプチ家出もした。
今までの自分は奴隷で有ることに気づきつつネトゲーにハマる
このゲームの世界に強いあこがれを抱き
将来ネトゲーを作ろうと志す
先生から卒業式に来ないかと言われたが拒否した
おれに卒業式来る資格は無いと思うし興味も無かったので行かなかった。
高校時代
志望校に滑り 一人寂しく通信制高校に通うようになってからは
学ぶ意欲がどん底まで低下していた。逆に意欲が上がったのがゲーム
一日13時間ゲームに費やしそれで年単位で継続する
高校時代一日13時間もゲーム出来る人間はそうそういない
おれはいずれ見返してやるために必死にゲームを研究したり ただゲームに生きていいた
秋になってからまた不登校になる バイトも辞める
親の命令でまだ生きている気がして不登校になり抵抗した
一年の休養を取ろうと思った 高校は中退した
16歳 休養と同時にただひたすら深夜アニメ・ネットゲームやフリゲにのめりこむ
今思えば一番解放されていて幸せだった諦めたあとのなんとも清々しい気持ちはこの世のものとは思えない幸福感に包まれていた
だが将来に対する絶望も感じていた
17歳 ニコ動を見始める バイトも始める 次の一年からの社会復帰を望みギャンブルとしてゲームのプログラミング専門学校へ行く準備を進めた
18歳 ゲームの専門学校で1年間プログラミングについて勉強する 正直 だんだんと病み始めてしまい
ゲーム制作以外の事を考えられないほどゲーム制作にのめり込む そのうち浮世離れした感覚に襲われ
19歳 黒い影が見えるようになる 思考やメンタルが明らかに病む だが同時に思考が冴える 想像や妄想が冴える この頃の経験からおれは明らかにこの世界で生きていける自信が身についたほど 脳が冴えていた
20歳 成人式前に小中の頃の友人が死んだ 不登校仲間だったのに 成人式で過去の友達に会う 嫌なやつもいた
彦根市出身なのでゆるきゃらのひこにゃんに歓迎されて 無事大人になる あの頃からずっと変わらないのに
21歳 ゲームで遊ぶことから離れて ゲーム制作中心の生活
メンタルが本格的に病んで重症化する
22歳 精神病院に入退院する
23歳 その後病院でついた食生活により体重がめっちゃ増える
24歳 Skypeを初めて友人も出来るようになる ネットで本格的に人との関わりを持ち始める
25歳 精神病院に再度入退院する
26歳 生まれて始めて自作ゲームをネットで公開する 次のゲーム制作で使っていた自分のPCが故障する ゲーム制作断念
27歳 Switchでゲームしまくる
28歳 Switchのゲームで仲良くなった友人とPCゲームなどでも遊ぶ 無駄な事は忘れて遊んでばかりの1年
29歳 そして今
今現在は再びゲーム制作に取り掛かろうとしています
やはり目標はネットゲーム制作 夢は自宅サーバーで 独自のオンラインゲームを運営していくということ!
書き込みありがとうございます!
ゲームへの目覚めが早い!調べたらファミコンが発売したのが、83年7月だったので、自分も2,3歳ごろにはすでに存在していたとはいえ、触れたのは5,6歳だったと思う。
しかし親の勉強に対する圧力が大分強かったんですね。。親は良い学校良い会社良い人生だと思い込んでのことだろうけど、強制されてやる勉強ほど嫌なものはないですね。
ネットゲームは、僕はゲームでも気を使うのは疲れるし、人が怖い!ってことで、ハマらなかったけど、今年「マルチプレイ恐怖症」が話題になってたので、結構自分みたいな人も多いのだなと。。
そういう人達にも届くネットゲームがあればいいなと思います。
ほう・・・マルチプレイ恐怖症ねぇ
そういえば友人もマルチプレイに対する恐怖があるみたいで色々言ってましたw
確かにそういう人たちに届くゲームか
作りてぇぜ(難しい)
なんてすばらしい夢だろう
応援しています
ありがとうございます!!
がんばりますぜ!
あがってたので見てみたらkeitokuさんと同い年でした
でも履歴とか書けるって凄いです。
過去の事は忘れたいからあまり記憶に残ってないのもあるけど、
恥ずかし過ぎて書けない
もちろんかまいません。トピックあげてくれてありがとう。履歴も書いてくれると嬉しいです。
お、同い年でしたか 履歴書にはかけない履歴を書くところなので、そういうことこそ書いてほしいけど、恥ずかしいですよね。僕もきっと恥ずかしいこと書いたのだろうけど、何を書いたかをすっかり忘れました(笑)
ちらっと見てしまいました‥。
投稿ありがとうございます
妹ができるということは姉にとっては、愛情を奪われることでもあるんですね。うちの姉や、甥っ子姪っ子たちも、そんな経験をしてるのだろうなぁと想像しました。
小学生のころ?から遅れを気にして追い込むのは、なかなかしんどそうですね…。でもご両親の勧めより(笑)自分がやると決めたことは、とことんやる感じなんですね。
車の運転はAT限定で取ったから今だにわからないけど、みるだけで覚えて再現までしまうのすごっ。でもさすがに危ないっと思って、かなり恐怖感を煽られたんでしょうかね 〈悪夢をみるほど
うわ…うち最悪の一歩手前ぎりぎりの年齢差です笑
わたしが生まれるのが後3か月遅かったら兄とは4歳差でした
親の言葉って実現力高いですよね。
否定されたらその通りになるし、肯定されたらその通りになる。
否定に耐えてなにかを形にできる子もいるけど、耐えられない子もいるということを現在60~70~の親世代はわかっていなかったんでしょうね。
ひきこもりの中にはそういう親からの期待や圧力に負けてしまった方も多いようですから
育て方は間違いなく子がひきこもりになるかならないかに影響はあると思います。
事情が複合的に絡み合ってひきこもりになった方の場合は、その事情の一つが親の影響ということもある、とそこまでなら言っていいのかな。
外部では親のせいにするなっていう意見多いですよね(>_<)
いえいえとんでもないです。 独り言スレッドはyuiさんが作ったやつで独り言のページ1が私で書き込みが出来なくなったので、新しい独り言のページを作っておいた方がいいかなと思って独り言2を勝手に作りました。
hiroroさんはそういう意味でいったのかもしれませんけど。
このスレを見てから、私も書いてみたいとはいかないものの、
思い返して自分を見つめ直した方が良いかなと、寝ながら思い出して
たら見事に起きれてるので、もう少し粘って早めのゴミ出しに行きたいと思います
◎小学校
なにをするにもとろい私を、先生やクラスメイトが妹のように扱ってくれていた。誰かの負担の上で、楽しく学校に通えているのだということを知らなかった。
◎中学校
人間関係の変化についていけなくなる。徐々にいじめじみたものが始まり、不登校に。中2頃に担任に別室登校したいと相談するが、甘えと受け取られ、認められなかった。適当に公園で暇つぶしし、親が仕事に行った時間帯にこっそり家に帰ることを覚える。当然親に学校から連絡がいくので、その度首ねっこを掴まれて学校に連れていかれていた。卒業前に母親に心療内科に行くことをすすめられる。発達障害があることが判明する。が、その事実は17歳まで伏せられた。
◎高校
通信制というものがあることを親から聞き、通信制高校に入学した。その高校にはいくつかコースがあり、在宅にしようかと思ったが、今度こそはまともに学校に通いたくて、5日制コースを選んだ。高2までは順調だった。ある日、クラスメイトに「気持ち悪い」と言われた。ただそれだけで中学校での思い出がフラッシュバックし、私はまた不登校に戻ってしまった。コースは途中からでも変えられるので、3日制コースにしてもらったが、それすらも無理になり、結局在宅になった。ぎりぎり卒業はできたが、この出来事は大きな傷として残ってしまった。
◎高校卒業後
高3の途中からお世話になっていた不登校児支援施設を20歳まで通い、卒業。その後、心療内科の先生から発達障害支援センターを紹介され、今に至る。現在は、自分に合いそうな就労移行支援や就労継続支援を発達障害支援センターの職員さんと一緒に探している。
投稿ありがとうございます
小学時代は楽しく過ごされていたんですね。でもあとで誰かに何か言われたのかな?でも単に負担に思ってた人だけではない気もします。それで楽しそうにしてたのなら。言った人はそのとき不幸な状態だったのかな。
中学校は雰囲気ががらっと変わりますもんねぇ。僕も小学生まではわりと楽しめたけど中学はだめでした。本来助けてもらいたい先生や親から、助けてもらうどころかより追い詰められるというのはありがちだけど、やはり辛い体験ですね…。
大変な中でも高校卒業できたのは良かったですね。進学という選択肢も増えるし。
支援施設に若い頃から繋がってて、理解ある人のサポート得ながら就労に向けて動けるのも良いですね
返信、ありがとうございます。いえ、なにか言われたわけではなく、私が勝手に思い込んでいるだけです。小学校高学年頃から周りとのズレは感じていたのですが、中学校でズレが顕著にあらわれてしまいました。最初に行った心療内科の先生が私にとても合っていて、今支援を受けられているのはすべてその先生のおかげといっても過言ではありません。本当に感謝しています。
○生まれてから
特にめだった体の障がいが見つからなかったため、普通の子として育てられる。
○幼稚園
周りの雰囲気になじめず、授業を勝手にすっぽかしてしまうような変わった子だった。
昆虫図鑑に出会って以来鱗翅目に興味をもつ。
○小学校低学年
1年の担任(男性)がとても厳しい人でよく廊下に立たされ、めちゃくちゃ怖かった。それ以来卒業まで男の先生がトラウマになる。
○ 〃 高学年
運動神経が鈍いのと言動が普通の人より変わっていたことからいじめを受けはじめる。
○中学生
父親と祖母と暮らすようになる。男の先生に対するトラウマは消えたが、いじめがすこしずつ酷くなっていく。仲間外れにされたり描いた絵を貶されることも多かったし、絵を目の前で破かれたりしたこともあった。色々なハラスメントも受けた。(このときは親がうるさかったので不登校すらできなかった)
○高校生
部活(邦楽部)の先輩や仲間が優しい人たちばかりでなんとか続けられた。(それでも学校に通わなかった時期が少しあった。)県大会には出場し、上位に入って全国大会に行けたのはとても嬉しかった。
3年次の後半に引退した後はメンタルが不調になり、進学も就活も上手く行かなかった。
○卒業後
4月:そのまま就職できず宙ぶらりんの状態になるAS
10月8日:ひきこもり村のサイトを見つけて登録。
途中で体温が上がってきましたができるだけ書いてみました。
投稿ありがとうございます
幼稚園のころから鱗翅目が好きだったんですね。KNさんは鱗翅目エリートですね(?
僕はクロアゲハ(多分)の群れを川でみてからだからわりと最近です。といってもそれ2011年だから10年経つのか(早い!)
小中は先生や級友に恵まれず大変だったんですね。お母さんも早くに亡くされて…。
高校の邦楽部?というのは初めて聞いたけど、お琴や尺八(三味線も?)をやる部活があるんですね。全国大会まで行ったとか、すげぇ…。「ましろのおと」って津軽三味線の漫画があるんですが、あんな感じの青春を送っていたの!?ずるいです(笑)てちがうか。でも「ましろのおと」は4月からアニメ化もされるようなので、良かったら見てみてください。
返信ありがとうございます。
部活は琴、十七弦、三味線があって、担当楽器は三味でした。練習が厳しかった分周りの環境が良かったので、そのときだけは辛い気分も忘れて練習に打ち込めました。
"この音とまれ"の他にも邦楽に焦点を当てた作品があったのですね…しかも三味線とのこと。
ましろのおと、アニメが楽しみです!
1981年生まれ。3人兄弟の次男
一番古い記憶というか写真で覚えているのは、押し車を押してる
1、2歳ぐらいの写真。ひたいの真ん中に蚊に刺されたあとがあり、
あとで千昌夫みたいだといじってた。
多分、3歳から保育園に入った。
覚えているのは新聞紙を破っていた事と、お昼寝の時間にちゃんと
寝ているか先生が確認する際にホラーの仮面を被って見に来る事が
あったのが強烈に怖かった。
あと、登り棒に登れ無くて辛かったのが挫折感を味わった最初かも。
家庭内の思い出は特に無し。親は普通。
特に問題の無い時期。
小学校に入った。多分保育園からの友達と登校してたんだろうけど、
何をされたのか覚えてないけど、よく泣かされていて、
この頃から気弱な性格を感じてたように思う。
でも、楽しい事もあったと思うし特に暗くなっては無かった記憶。
なぜかSDガンダムが好きでよく休み時間に絵を描いていた。
うまく描けてるのか周りの友達も「おー!」といった感じで、
よく描いて描いてと言われて、時には負担になるような気持ちも
あったけれど、人に認められるのは悪くなかったと思う。
嫌な記憶としては、給食で火を通したイカの匂いが嫌いで、
八宝菜に入ってる程度のやつなら何とかなったけど、
たまにイカの煮付けのみドン!とメインで出てくる日があって、
給食終わったら下校するだけだったのに、ひとり五時間目まで
突入して泣きながら食べさせられた思い出。
乾燥してる食品が嫌いだったら隠したり出来るのにな
まあ今の時代ならそんな事させられないんだろうけど。
勉強は好きでは無かったけど成績は普通だった。
夏休みの宿題は最後までやらない方。
運動は球技とかは苦手な方だったけど、体育は楽しい授業。
学校以外で水泳に通ってた。
当日は辛かったけど面白いのはクロールの練習でアゴを引けと言われて、
その言葉の意味を理解してなかった私は、押すは前に出す、引くは
後ろに下げるので、身体を横から見た場合に中心の軸から頭を
後ろに下げたらアゴも下がるだろうと思ったが、結果的に頭を上げる
動作なのでアゴを引くと逆の事をしていた。
すると先生が違う!!と怒り、泳いでる私を持ち上げて隣のレーンに
投げ捨てた。えー!?と思いながら、まだ引きが足りてなかったかと
同じ事をさらに意識したら、よりアゴが上がってるのでまた投げられる。
そんな事を5、6回ループするような事があって最終的にどう解決したのか
覚えてないけど、思えばわからないことがあっても聞かずに失敗を
繰り返すというのをこの頃からしていたんだなと。
ついでにめんどくさがりなので、深く考えようとせず、
何かの機会でわかれば良いかと思っていた。
今でもそういうところはそこまで変わっていないと思う。
教室のランクがあって50mだか100mだかの試験に落ちてしまった時に
何かしんどいだけに思っていつの間にか辞めてしまった。
あと、プールの前に小さなマクドナルドがあって、帰りに買って
もらってる子供を見て羨ましいがってた。
ここまでも普通