ひきこもり写真部

elさんの理解に励む熱心な姿勢に感動しました!

僕もラカンさんに関わる本を読んで面白く感じ、頭の片隅に入れている程度です。
例えば象徴界を経由した理解を正式な理解とし、それは数学のように証明可能なほど厳密な理解と置いたら、
僕は想像界に留まった理解の範疇で、それは漫画を読んで適当にお気に入りのシーンを語るような、主観的なイメージをたくさん交えた理解な程度です :hatching_chick: :sweat_drops:

三界は結局、何を説明されているのでしょう。
精神分析学という分野になると思うのですが、西洋の方は伝統的に物事を科学して理解していきたい欲求が強いという意見もありまして、
きっと人間の心や言葉について理解していく上で、三界は便利なモデルとして提唱されたのかなとふと思いました。枠組みを作ると色々便利ですからね。

鏡像段階は重要なキーワードですね!イドはエスとも言うそうです。エスは無意識の他に身体自体を指される事がありました。
人間は本来エス(身体)に過ぎないという現実界にある空疎な事実そのものに耐えることが出来ないらしく、
意味(自我)を求めて様々なラベリングを現実界に貼り付ける欲求が最初から備わっているそうです。
曖昧な理解ですが自分の今ここにあるエス(身体)の欲求を抑圧してでも、対象a(かつて欲求していたもの)という意味を求めて、
どれだけ覚えても本来は腹の足しにもならない言葉を覚えたり使ったりしながら、身体自体には盲目になって現実をあっちこっち行って彷徨ってしまうのが人間だとか。
睡眠時間を削ってでも一生懸命働かれる人は、きっと対象aを求め続けている、そんなイメージを持ってしまいました。そう思うととても人間的な振る舞いで素敵だなと感じます。
普通に生活を営んでいたら、当然、現実界に対する視力は落ちていくかなと思います。
子供は主に想像界、大人は主に象徴界を過ごす時間が長いため、無意識(現実界)は殆ど抑圧されていると思いました。

現実は一つかしかないか?
ラカンさんからしてみたら現実の姿は本来構造化されていなく、1つとか2つとか数の概念で置き換えることは恐らく無理と思いました。
現実は一つでありそれを客観と呼ぶとします。しかし現実自体は本来構造がないため客観も無いですね。
もし客観的な現実があり人間は最初からそれを認識できるのでしたら、言葉を覚えたりする勉強をする必要はないと思います。
一つしかない現実されるものは恐らく象徴界のことを指し、言葉によって共同化された幻想のことを客観と呼び、ちゃんとそれを理解することが人間のマナーである、というニュアンスがしっくりきます。

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