ラカンの三界は人の心が認識する世界のことではないかなと、少し思いました。
ただし、唯心論的ですが、客体そのものを認識することができない以上、認識する心とその対象のみが人の世界なのだと考えること考えることもできる。
ラカンの三つの界というのは、我々人々が生きている世界そのものでもあるのかと思いました。我々は想像界に住み、象徴界を生き、現実界を感じている、というように。
大人は言葉の自動機械になってしまうのかなとちょっと思いました。子供が想像界で生きるのは、自己を確立するためでもあるのかな?
一つしかない現実とされるものは、象徴界のことなんですね。説明では象徴界とは言葉、言語の世界ということでしたが、言葉には曖昧性があり、人によって解釈が異なったりすることはあります。唯一の現実とは象徴界の数学的なプラトンでいうイデアのようなものなんでしょうか。
人々は言葉によって幻想というかバーチャルな存在を共有するということですね。理解が深まりました。共同幻想を共有するのが大人になること?子供も友達や教師とある程度、同じものを共有しなければなりませんね。
「欲望」と「欲求」は近い言葉ですが、人間的か動物的かによって分けられるのかなと思いました。
環氏によれば『「対象a」とは、「欲望の原因」』ということだそうです。
確かに、本来の姿である現実界(身体)は、それには意味がない、ただあるがままである、それには納得です。
その事実に、人間は耐えられないという洞察は深いですね。
また、対象a=欲望の原因ということも知りました。
とのことですが、対象aという語の解釈というか意味内容は、人によって異なるのでしょうか?
このあたり、欲望という語が中心的なキーワードのようですね。もう少し理解が必要なようで、調べてみます。