哲学ルーム

ラカンの三界は人の心が認識する世界のことではないかなと、少し思いました。
ただし、唯心論的ですが、客体そのものを認識することができない以上、認識する心とその対象のみが人の世界なのだと考えること考えることもできる。
ラカンの三つの界というのは、我々人々が生きている世界そのものでもあるのかと思いました。我々は想像界に住み、象徴界を生き、現実界を感じている、というように。

大人は言葉の自動機械になってしまうのかなとちょっと思いました。子供が想像界で生きるのは、自己を確立するためでもあるのかな?

一つしかない現実とされるものは、象徴界のことなんですね。説明では象徴界とは言葉、言語の世界ということでしたが、言葉には曖昧性があり、人によって解釈が異なったりすることはあります。唯一の現実とは象徴界の数学的なプラトンでいうイデアのようなものなんでしょうか。
人々は言葉によって幻想というかバーチャルな存在を共有するということですね。理解が深まりました。共同幻想を共有するのが大人になること?子供も友達や教師とある程度、同じものを共有しなければなりませんね。

「欲望」と「欲求」は近い言葉ですが、人間的か動物的かによって分けられるのかなと思いました。

環氏によれば『「対象a」とは、「欲望の原因」』ということだそうです。
確かに、本来の姿である現実界(身体)は、それには意味がない、ただあるがままである、それには納得です。
その事実に、人間は耐えられないという洞察は深いですね。

また、対象a=欲望の原因ということも知りました。

とのことですが、対象aという語の解釈というか意味内容は、人によって異なるのでしょうか?

このあたり、欲望という語が中心的なキーワードのようですね。もう少し理解が必要なようで、調べてみます。

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少し逸れますが僕は岸田秀さんのものぐさ精神分析や幻想の未来などの本に大きく影響を受けており、
岸田理論とラカン理論はお互いに矛盾を感じさせない内容となっているため、お互いの理論が補完関係となります。
共通するのは共に元祖フロイド理論を引き継がれています。フロイドさんは精神分析学の創始者だけあって理論の説得力はあると感じます。
全て実証主義として証明出来るものではないですが、心を科学唯物論的に具体化出来るわけがないのは直感的に明らかなので、
僕はラカン理論や岸田理論は抵抗なく受け入れたいと思います。頭が理解に付いていかない現実がありますが :skull: :sweat_drops:

対象aに関してですが、確かに僕は欲望と欲求が曖昧でした。
欲求はエスから成るもので、食欲、睡眠欲、排泄欲、性欲などが代表的ですかね
欲望は自我から成るもので、帰属欲、社交欲、創作欲、承認欲・・・自我は幻想なので欲望のバリエーションは実質無限にあると思います。
ただ岸田理論によるとエスは後ほど抑圧された自我も含まれていくそうなので、後にはエス自体にも例えば社交欲などが生じると思います。
特に他者から求められているわけではないのに、人と話したくて仕方ない!と感じてしまうのは、エス(身体)が人と話すことで生じる享楽を覚えているからですかね。
ただ元々欲望は欲求と違って他者から引き受けるもので、自分自身の欲望は存在しないようです。
仮に自分の音楽活動が全ての人間から期待されていない、無価値な行為であると認識してしまった場合、悲しいですが活動を続ける欲望は失われていくと思います。
欲望が失われると欲求のみで生きることになってしまい、文化レベルが著しく下がるので好ましくないですね。
だから人に対しては情緒を持って接し、自分の仕事には他者から期待されるように良く魅せる装飾を貼り付けた方が良いのだと思います。

対象aは正確には欲望の原因ですね。なぜ対象a自体は存在しないのかは理解不足があります。
勝手ですが対象aとは幼児期に鏡像段階の際に一人勝手に思い描いてしまった、個人で閉じた唯一の想像界のようにも受け取れます。
他者と共有せず個人で閉じてしまっており、また描いた時期はまだ言葉が未発達なため、大人になっても他者に説明したり具体化することは困難だと思うので、
その困難さが永遠の欠如として欲望の原因に在り続けるのかもしれませんね。

一つしかない現実は、多分象徴界のことを指すとは、僕が勝手ながら思っているだけです :sweat_drops:
というのも、「一つしかない現実」という概念が言葉によって生み出されているので、それは象徴界の中で定義されていくのだと思います。
現実自体はどう認識しても、一つ、二つ、三つと数などに置き換えることは無理と思います。どこを探しても数は現実自体には存在しないとしか思えないので・・・。
コミュニケーションをし、きちんと勉強をすれば「一つしかない現実」を思い浮かべることが出来るようになってくる、プラトンのイデアにしても言葉によって人工的に作っていく世界観だと思います。

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Itsukieさんは読書家のようですね、ラカンの入門書を購入してみようかと考えています。オススメがありましたら教えて頂ければ嬉しいです。

これから作業所なので帰宅したらまた返信させていただきます、

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確かに、斎藤環さんも「ラカンの欲望は他者の欲望である」という言葉を引用して、「他者」とは「言葉」のことだと言っていました。言葉が欲望を作り出しているとは、直観的によくわからないですが、(まだ、人は他者の欲望を欲望しているという言い方の方がわかります)面白い洞察ですね。ただ、他者から欲望を引き受けるということは、その他者も別の誰かから引き受けているわけで、そうすると、一番最初に欲望を引き受けた人はどうやって引き受けたのか疑問に思います。

なるほど、他者の存在があってさらに他者から求められることで人は自分のやっていることに価値を見出せる。それはその通りだと思います。

また、基本的な話になりますが、現実界というものは、人それぞれに固有なモノが存在するということでしょうか?つまり、人物Aには現実界Aというものがある、人物Bには現実界Bというものがある・・・、と現実界自体は一つではなく人それぞれ固有であるのでしょうか?

今、環さんの文章を読んでいるところですが、現実界は、認識の外にあるものだが、それは心を働かせているシステムであり、存在するものだ、というように理解しました。

ラカンは人間のこころを作り出しているシステムを3種類に分類した

これが想像界、象徴界、現実界です。どうも、環さんによれば、こころの表層的な部分は想像界として我々は認知し、その想像界の裏ではこころは象徴界の言葉による構造によって作り出されている、象徴界はソフトフェアでいうところのソースコードということですね。以前、マトリックスの例えで仰っていましたね。そして最後の現実界とはハードウェアということになる。それらが共同してこころを作り出しているということなんですね。なかなか興味深くて面白いです。

環氏によれば「人間が欲望を持つとき、そこには必ず、対象aの作用が働いている。」
『それは「この世」の実在物じゃない。それはむしろ、「この世に客観的には存在していない」ことによって、僕らの欲望に作用する。』

基本的なことですが、Itsukieさんの指摘するように、欠乏が欲望することを後押ししているという感じなのですかね。幼少時に構築した閉じた世界を他者と共有することが困難ということなんですね。そこが対象aと深く関係しているということですね。

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elさんに触発されて、押し入れの奥に入っていたラカンさんの本を出しました :slightly_smiling_face:
福原泰平さんという方のラカンの本ですが、こちらは少し難解なので途中まで読んだだけですが、
今見返してみると、重要なことがたくさん書かれていました。正確に理解するなら読まないかな :sweat_drops:

確かに仰る通り、言葉は他者です。それは言葉は幼少期に教えられて覚えていくことから明らかですね。
自分で新しい単語や言語体系を作るとしても、それは既に持っている言葉に基づいて作られる象徴界としての活動だと思うので、あくまで言葉は他者であることに変わり無いです。

岸田秀さんによれば、自我とエスを要約してこのように分けられておりました。
・自我=他者(言葉)、過去、死、幻想
・エス=自分(身体)、現在、生、現実
他者と自分は言葉と身体に括弧して僕が補足しておきました。こうしても間違はないと思います。

岸田秀さんは言語の起源についても考察はされていますが、要約してざっくり言えば
・何故だか分からないが人間は本能が壊れている。他の霊長類と違い未熟な状態で産まれ、すぐに立ったり木に登ったりすることができない。
・本能が壊れているので、人間は現実世界に対してどのように生きたら良いのか直感的にわからない。だから人間同士で他の生物よりもよりたくさんのコミュニケーションを必要とした。
・言葉そのものは複雑なものではなく、動物の鳴き声のようなものから発展したと考えれば良い。他の動物より言葉が発展したのはコミュニケーションを他の動物より多く行ったからではないか。
・本能は壊れているが存在はしている。壊れている以上、基本的な欲求(食欲・睡眠欲・排泄欲・性欲)を生花としたら、生花のみではリビドーを満足させることができない。だから様々な造花を作らなければリビドーを満足させることができなくなった。
とのことです。以上から言葉の起源については一通り説明は揃っているかなと思います。

僕が付け加えるとしたら、本能が壊れているからたくさんコミュニケーションを必要するという基本的な因果関係を繰り返すことで、
人間はどんどん巧みに言葉を扱える身体構造(口腔機能など)を得て、よりコミュニケーションが増えることで言葉が増え幻想が抽象化していき、
増える一方の言語と意識の抽象化に従い本能はどんどん壊れていき、現代社会のような高度に発達した複雑な技術などが誕生したと思います。
何故、他の霊長類と違い本能が壊れたかについては、たまたまそういう突然変異が産まれてしまい、種として確立するほど勢力を得たからとまでしかわかりません。説明されていたのはここまでだったと思います。
なので理論的に起源を考えることが出来るのはここまであり、あとは化石などの発見で骨格構造の変化を確認するしかないかもですね。

言葉が欲望を作り出しているのは人間は本能が壊れているため、人間同士のコミュニケーションをしなければ生きていくことが出来ず、
コミュニケーションによって、人間は欲望を作り出して現実に適応していくのだと思います。
僕の場合は、自分の言動基準が家族からの言葉による影響を相当受けていることを自覚しているため、言葉が欲望を作り出しているという考えに納得できます。

現実界は人それぞれ固有であると思います。厳密には3界すべて人それぞれ固有であると思います。
象徴界だけは言語によって人それぞれの差異を抽象化し一般化していく事を目的にしている界なため、一つだけの現実という観念は象徴界を指していると思います。

環さんはRSIを映画マトリックスで比喩されたのは良い例と思いますね
僕がラカンさんに興味を持ったのは対象aという言葉が起源でして、長期ひきこもりにとって対象aに対する感覚値の低下や社会との乖離が、
社会の中に居場所を見出して活動していくことが困難になっているのではないかと勝手ながら思っています :sweat_smile:
どうやって対象aを盛り返したり、社会の中で見出していくかが重要かなと思います。

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本の紹介、ありがとうございました。福原泰平さんの本、難しいという意見もあるようですね。参考にしてみます。

なるほど、その説明を聴いてわかりました。
他者というと生身の人間を連想してしまいますが、他から入ってくる自分のこころに影響を与えるものと、読みかえると、確かにそういえると思いました。

自我=過去とは面白いですね。これは私が影響を受けた人物ですが、クリシュナムルティというインドの哲人は、脳は過去を蓄積したもの、既知なるものであり、そこに新しいものはない新生はない、というようなことを言っていたと思います。そして、また、既知なるものは死んだものである、とも言っていて、岸田秀さんの言説と酷似していて大変興味深いです。もちろん、自我は想像界で作り上げられたイメージであり、幻想というのはその通りだと思います。

エスとは、私は欲動、欲望の根源などの意味があると思っていたのですが、岸田さんの説明によると、ポジティブな意味だなと思いました。エスは抑圧されるもの、人が社会的に生きるときには、抑圧しなければいけないものと、ネガティブなものと認識していました。

本能はあらかじめプログラムされたものであり、例えば動物の赤ん坊が自発的に立ち上がったり、親の後をついて行ったりできるのは本能のおかげである。しかし、人間には生まれてからすぐにはたちが上がることもできないし、ハイハイも時間を掛けなければできない。動物は本能というプログラムであたかも精巧にできたマシーンのようだ。だが、人間は言葉を覚えて、後天的に様々なことを学んでいく。この点で人間と動物は違うのだ、と斎藤環さんは言っていました。

「壊れている」という表現は正しいのかわかりませんが、少なくとも本能は機能していないとは言えるかもしれません。

それは鋭い洞察ですね。
クリシュナムルティも同じようなことを指摘していて、人の脳はコンピュータのようなもので、過去に聴いたり読んだりした言葉によって人は考え、話をしたりしている。自分の意見だと思っているものも、過去に聴いたり読んだりした他者の言葉なのだ、ということを言っていました。ただし、推論によって新しい知識を得ることはできるし、それによって新しい意見を言うこともできるとは思います。

同じようなことを斎藤環さんも言っています。

言葉を使うことによって、人間は「欲望」を手に入れる。それはすごく重要で決定的なことだ。おおざっぱに対比するなら、動物は「本能」と「欲求」に突き動かされ、本能の欠如した人間は「欲望」に従う。そんなふうに言うことができるだろう。

また、精神分析は「欲望の科学」だという人もいるそうです。欲望とはかなり重要なキーワードのようですね。これについて深くItsukieさんと議論してみたくなりました。

まだ、理解が至っていませんが、言葉は他者であり、言葉を使うことによって人は欲望するということですよね。言葉はイメージを伴うものもあり、それが欲望することにどんな影響を与えているのか、詳しく知りたいです。

現実に適応するために欲望を作り出すというのですね。たしかに、欲望は人の行動の源で、欲望することで、人は社会、さらには現実にコミットしてくということでしょうか。ですが、現実に適応するためというのは、個人的には無自覚な気がします、新社会人が会社に適応するという場合などは例外ですが、我々は自然と欲望を手に入れているように思います。

斎藤環さんによれば、人が欲望するときにはその裏で対象aの作用が働いていると言っていました。
対象aは欲望と深く関係しているということですね。
実際はわかりませんが、今の時代、ひきこもり多くはスマホを持ったりしているだろうしネットとつながっている人も多いと思います。社会と隔絶されていても、ネットを通じて人とコミュニケーションとれるというこの状況、SNSなどの利用は精神分析的には「対象a」や「欠如」、「欲望」というキーワードを用いて分析するとどのようになるのでしょうか。気になります。

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対象aについて考えています。
対象aとは具体的にどんなものがあるのでしょうか?
環氏はもっとも対象aの端的な例として「お金」を挙げていました。
対象aとはそれ自体は客観的にこの世界に存在しない。
存在しないものだからこそそれは欲望される。
だとすれば、抽象的な観念なのでしょうか?
例えば、愛とかそのようなものを言うのでしょうか?
ひきこもりは、そのような観念的な対象への欲望が弱くなっていて、生活レベルが欲求によるものに成り下がっているということでしょうか?
ひきこもりはそのような欲望に対する熱量が大幅に下がっている傾向にあるというのは、確かに言えているなと思いますね。やはり、他者の存在と切り離されてしまっている、社会的に孤立していることが関係するのでしょうか。

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対象aは理想的な存在であり、この世には存在しえない。
そのような存在を示唆するがゆえに、人々は物語を読んだり、音楽を聴くのかもしれない。
また、そのような対象aは想像界と象徴界が人間のこころのシステムとして働いているからこそ、存在してしまう、現実には存在しない幻想なのかも。

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福原泰平さんの本は、僕には難しく感じて3割くらい読んだところで押し入れに入れっぱなししていました(笑)
ラカン理論は興味深いことに変わり無いので、時々webで検索したりしてブログ記事をつまみ食いして理解をしている感じが大半です。
精神分析学の考え方の土台として岸田秀さんの本を読んでいるので、何となくこんなニュアンスだろうな〜と受け取っています。
僕は岸田理論から、自分と意識するものは他者で本当の自分は身体に過ぎない、という考えに強烈なインパクト受け、
それからは家にひきこもってはいられずに外に出て散歩したり日光浴を浴びたりして、身体自体に注意を向けるようになりましたねw

フリードリヒ・ニーチェさんのツァラトゥストラはかく語りきは、ニヒリズムを考察されていて詩的な文体も兼ねて難解ですが相当面白い本です。
そこでも身体について書かれていて、きちんと現実を見ている人は、自我の幻想性を看破されていることが伺えました。

elさんのご返信内容を伺う限り、僕以上に理解されていると思います:bangbang::+1:
精神分析は欲望の科学という人もいるのですか。例えとしては適切だと思います。
創始者であるフロイドさんは、確かヒステリー患者の治療から始まったような記憶がありますが、現代社会では概ね欲望は重要なキーワードと思いました。

今の時代、ひきこもりは必然的に発生する文化的な現象だと思いますが、その背景には仰る通り、スマホやSNSなどを挙げられると思います。
僕のひきこもりの頃は無かった代物なので想像するしかありませんが、ドゥルーズさんとガタリさんのリゾームやアンチオイディプスは関係が強いかなと思います。
ひきこもり現象の根幹は、豊かな現代システムの裏に隠れて去勢されることを拒み続け、自分のリゾームをひたすら死守し続けているのではないかと思います。ノマド的な放浪者なイメージが適当かなと感じます。
一方でリゾームを伸ばし過ぎた故に自己管理に限界を生じ、様々な不安の種が生まれてしまったのではないかと思います。
便利なシステムは様々な享楽を手軽に与えてくれるため、その享楽に溺れ過ぎたために依存症のような状態に陥っているとも言えるかなと。
僕自身も相当、今はシステムからの享楽を享受している側面がありますが、直感的に問題を感じてしまう側面がありまして、
あくまで享楽は象徴界からの去勢的な活動によって生じた疲労に対して一時避難所に過ぎず、
象徴界的な活動を行わずに享楽に身を任せ続けるのは、人格に与える悪影響は無視できないと感じます。
僕の家庭事情に過ぎないかもしれませんが・・・、他のひきこもりの方はどのように感じているのでしょうかね :sweat_smile:

いずれにしてもRSIの各界は本質的には個人で閉じていると思うので、直感的に不味いと感じると感じるものは、その人にとっての対象aにマッチングしていないことを意味していると思うので、自分の対象aに従った方が良いと思いましたね。

具体的な対象aは何でしょうね。幼子は先ず愛と乳房から始まると思うのですが、それからは、規範の理解による花丸(100点)、運動や創作などによる現実操作、
成人以後は具体的な内容は問われなくなるが、拍手、感謝、お金、売上数字など現象としての見返りが代表的かなと思います。
これらは全て象徴界の中で具体的な活動をしなければ得られないため、何によって拍手、感謝、お金、数字などを得ていくかが肝心になると思います。
岸田秀さんはリビドーの満足形式についてよく述べておりましたが、ひきこもりにとってはこれが対象aとの関係性に重要だと思いました。
率直に感じるのは、リビドーの満足形式が拍手、感謝、お金、数字などを得ることにほとんど繋がっておらず、よって対象aを得ることが出来ないとか、
そもそも社会の中でリビドーの満足形式を築き上げることが出来なかった、よって対象aとも疎遠である、などの問題認識を感覚的に感じています。

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福原泰平さんの本を簡単に流し読み(熟読はとても難しい)すると、
対象aとは、どれだけ人が物事を語ったとしても、語りきれなかった、こぼれてしまった剰余物のことを指していました。
対象aは物質的な支えはなく、鏡像的(理想のセルフイメージとして受け取っています)、象徴的(他者によって与えられた理想的な役割と受け取っています)に同一化可能な対象は無いと書かれているため、
やはり人間の欲望を根本的に満たすことは不可能ということでしょう。
理想の自分なんてものはないし、社会の中にある自分にとっての理想的な居場所(役割)なんてものもない、と受け取りました。

また、対象aの働き方についてより具体的に知るためには、4つのディスクールについてある程度触れる必要があるかなと思います。
google検索してみるとwebでも良い記事が紹介されていました。

「4つのディスクール」の理論の基本構造は
「真理(左下)」「動因(左上)」「他者(右上)」「生産物(右下)」
という4つの位置と
「主人(S1)」「知(S2)」「主体($)」「対象( a )」
の4つの要素との対応関係を問うものである。

http://kagurakanon.sakura.ne.jp/11000.html

Sはシニフィアンや主体を関係するもののようです。
斜線を轢かれたSは、去勢された自己、無を書き込まれた自己なのかな。ちゃんと読まないとわからないですね。
一先ず難しいという課題がありますが、去勢されているかどうかは重要かなと思いましたね。
悦びを与えてくれるはずの何ものかを失っているかいないか。
僕はひきこもることで残ってしまった去勢されていない側面に少し依存気味なところがあり、
他者にとって得にならない非象徴界的活動として、工作、音楽、ビデオゲームなどで日々を過ごしてしまうことに、ぼんやりとこのままで良いのか?心配を感じてしまいますね。
恐らく去勢された部分からの声であって、父性原理の名の元に社会復帰する時間を設けた方が良いと感じていると思いましたねー。

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なぜ言葉を使うことによって、人間は「欲望」を手に入れることが出来るのか?言葉が欲望を起動させるメカニズムはどのようなものなのでしょうか。

また、煩悩(欲望)余すところなく滅した、釈迦は、その後でも、言語を使用していました。言葉を使っているのに欲望がないのはどうしてでしょうか。

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言葉が欲望を起動させるメカニズムについて憶測ですが、
先ず想像界から象徴界へ移行しなければ言葉が発達しないため、人間としては生きることが出来ないです。象徴界は言語活動の場でありますから、社会に適応できないことを意味します。
それと前記したように人間は本能が壊れているので、言葉無しで動物のように現実適応は実質不可能です。
なので先ず想像界から象徴界への移行は生きるために必須条件になります。

この移行のときに何が起きているのか?というのが、elさんの質問に適した答え方になると思いました。
福原さんの本では、去勢がキーワードとなっています。去勢は子供がいつまでも都合の良い想像界の中に住み続けることはできないというしつけです。
このしつけを受け入れる時、子供(人間)は自身に無を刻み込むことになると書かれていました。正確に引用すると、

無をみずからの上に折り込むことで、ラカンがいうように、人間は本来それであるはずの対象と主体とを失い、
楽園追放後のこれに代わる代理世界の中で、欠けた対象の中に可能性を見いだすことで生き延びていくしかない存在となっていく。

僕はこう解釈しました。先ず誕生後に原始的ナルシズムに満ちた状態が主体である。対象は主体が思い描く対象a自体のことと思います。
幼子がしつけによって原始的ナルシズム(主体)を失い、一度自身を無とする。これが斜線を敷かれたSのようです。
その後に言葉の世界に入っていき、言葉をたくさん学び現実を正しく理解していく。
現実を正しく理解することで様々な対象を得ることができるが、それらは全て原始的ナルシズム(主体だった頃)の際に思い描いていた対象とは違うのは明らか。
この主体の中の対象と象徴界での活動によって得られる対象の差異の事、または主体の時に描いていた最高の対象のことを、対象aを指しているのかもしれません。

要約すると、しつけを受けたことで自身を無にした人間は、社会の中で本来の欲望である対象aの代理物を延々と探し続けなければ、能動的に生きることができない。
生きるために、象徴界の中で言葉のやり取りをしながら、延々と対象aの代理物を探し続ける。
本の内容に対してかなり要約していますが、ざっくりとこんな感じが、言葉が欲望を起動させるメカニズムの正体かもしれません。

釈迦さんについては、無を刻印してしまった主体(原始的ナルシズム)を再認識したことで、
人間(自分)は本来は主体のままで良いと感じたことを言葉を使って説明されたのかもしれないと思いました。
厳密には言葉を覚えてしまっているので主体を取り戻すことは無理だと思いますが、9割くらい感覚を取り戻し、欲望は1割ほどまで減らせた状態で、滅したと表現されたのではないでしょうか。

誕生後直ぐの状態でも対象aが欲望されるのでしょうか?まだ、言葉を覚える前なので、欲求しかないと思うのですが。「本来の欲望である対象a」とのことですが、その原初の欲望と言える対象aはどのようにして生まれたのでしょうか。

また、散歩していてふと思ったのですが、人間の想像界と動物が認知する想像界に質的な違いはあるのでしょうか。また、動物には象徴界はありませんよね。でもどうなんだろう、手話ができるゴリラというのがいたと聞いたことがあります。

いえ、釈迦は煩悩を滅尽したと言ってますよ。9:1とかでは無く。そうでなければ解脱しているとは言えないとしていました。

しかし、言葉によって欲望が起動する裏には対象aの渇望というか対象aへの希求が深く関係しているということが分かってきました。そこら辺の、関係性が見えてきました。

対象a自体が生まれるのは鏡像段階の時と記憶があります。
鏡像段階は生後6〜18ヶ月の幼子に見られるとのことなので、この時に非言語的に思い描く想像界こそが対象a自体ではないかな。

誕生から18ヶ月の間に鏡像段階によって対象a自体を見出し、それ移行は象徴界へ移行していくため、
自身の対象a自体に無を刻み、それに代わるものを言語活動の中で見出していく、という感じと受け取りました。
つまり、欲望の原因は生後18ヶ月以内に描いたところにあるので、当然その頃に描くものは大人になってから認識する現実(=実質的には象徴界)とは乖離していることが明らかなので、
残念ながら対象a自体(欲望の原因そのもの)と出会うことは不可能と思いました。

elさんは散歩される中でお考えになられたのですか。素敵ですね :clap: :smile:
僕は動物にも想像界はあると思います。身体的には大脳皮質の大きさによって意識の抽象化が行われると考えているので、
大脳皮質が発達した動物ほど想像界が豊かと思います。猿>犬>鼠>虫 という感じでしょうか。
虫は大脳皮質はなかったと記憶しているので、反射だけで生きる、ある意味、現実界だけを生きているとも言い換えれそうです。
僕は猫を飼ったことがあるのですが、明らかに言葉をいくつか記憶し、示していることを理解していたので、
犬猫くらいの大脳皮質ならば、人間同様に想像界→象徴界という去勢のメカニズムがあると思って良いかなと。
知能を人間の年齢に換算すると、2~3歳くらいの知性はあるそうなので、凡そ1年半分の象徴界が形成されていると見て良いのでは。

釈迦についてはちょっとわからないです。僕は言葉を理解した時点で「取り戻せない領域」をゼロにすることは出来ないと思うのですが、
お釈迦さまは元祖想像界の悦びを99.999…%くらい取り戻したのかもしれないですね :grinning:

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想像界ということは具体的なイメージがありますよね。具体的なその時期に生じる対象aとはどのようなものがありますか?また、なぜ、人間には対象aが存在すると発見できたのでしょうか?

大人は想像界と象徴界の二つにわたって生きていると思うのですが、割合的には平均的にどれくらいですか?

対象aは「欲望の原因」ですよね。以前にも述べましたが、斎藤環氏によれば、対象aに近い存在は「お金」と言っていました。生後18ヶ月以内にお金について認識を持つ幼子はほとんどいないと思うのですが、どうなのでしょう。。よくわからなくなってきました。

対象aは欲望の原因でしたよね。対象a自体も欲望ということでしょうか。

この活動を具体的かつ明晰に説明していただけますか?なぜ替えが効くのか。また言語活動によってなぜ欲望が一時的にでも不完全でも叶うのか。

去勢

去勢というキーワードに対して自分は無知なのですが、これは社会化の一種と考えてもよいのでしょうか。なぜ去勢されると、対象aは欠落するのでしょうか?それはどのような過程ですか?
対象aの欠落感とはどのような時に感じるのでしょうか?例えば、夜中に一人で寂しくなったとかなんでしょうか。

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あれ、僕は無自覚に対象aと対象a自体を分けて考えていました。
対象aは欲望の原因であり、対象a自体は欲望の元型として分別してしまいました。
これはあまり意味がなかったかもしれません。ほとんど同じことを示していますね。。。
こんな調子なので、僕の解釈の受け取りは話半分でお願いします :bangbang: :laughing: :sweat_drops:

対象aは鏡像段階(生後18ヶ月以内)に生じると解釈した場合、それを言葉によって具体的に説明することは不可能です。
対象aには決して辿り着けない、言葉によって説明しきれないものと定義されているので。

近似するものの例でしたら、僕は西洋音楽のある家庭に育ったので、僕の対象aはノイシュヴァンシュタイン城のような場所に住んで、ピアノを弾いたりガーデニングしたりですかね:bouquet::european_castle::musical_keyboard:
このお城の設立命令を下したルートヴィヒ2世さんの生涯は、今解釈しなおすとどんな手段を使ってでも対象aを実現させることに励まれたと思えるので、妙に共感してしまいました。
子供の頃はビデオゲームのFF9やサモンナイト2のような世界観にかなり傾倒していましたので、中世ヨーロッパ的な雰囲気に鏡像をどこかで見てしまったのかも :sweat_smile:
あくまで僕の話ですが、他の方の対象aを例に挙げるのは残念ながらひきこもりなのでちょっと分かりません。
知人の女性の方は、スラムダンクに傾倒して止まない方がいらしました。
よって背が高くて運動神経抜群な男性を白馬の王子様のようなものし、自分はその人に選ばれし恋人として鏡像をかつて見ていた、などの解釈は有りですかね?

お金は対象aの代わりと受け取っているのですが、elさんはどう思われますか。
対象aとは常にすれ違いな関係のため、お金によってどんなものにも交換出来る状況を用意しておくことで、いつか対象aと出会うことを夢見る、そんな風に受け取れるのですが。
原さんの本をざっくり見渡す限り、お金自体は対象aではないと僕は思います。

象徴界の中で与えられた役割を行うことを言語活動としますが、あくまでこれは失われた主体を代替とするものです。
上記に貼りました4つのディスクールのうちにある、主人のディスクールに相当するのでは。
詳細はURL先に載っていますが、そこで得る享楽が二つ挙げておりました。
ファルス享楽と余剰享楽。ファルス享楽はシニフィアン以前のようなので対象aに近いかもしれませんね。剰余享楽は象徴界での活動によって得る対象aの代わりでしょうか。
大人は象徴界の中で完全に満たされることはなく、ちょこちょことちいさな幸せを得ながら生きるものと解釈します。

去勢は、父性原理を引き受けることで、仰る通り社会化の一種と考えて良いと思います。
またなぜそれによって対象aが失われるかというと、それは個人が全能な状態から全体の中の1個に過ぎない状態へと移行するからです。
対象aの欠落感は、どんな感じだったでしょうね?
僕は幼い頃は、思ってもいないことは言いたく無いと抵抗する癖がありました。
それで叱られ外に追い出されて鍵を閉められ、泣きながら近くを彷徨っていた記憶があります。
親の言う事に従わなければならないという、ある種の諦めが対象aの欠落感の一種かもしれません。

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