哲学ルーム

ふと抱いた哲学的疑問を書いてみたり。
それについて別の誰かが、気づきや洞察を書いてみたり。

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誰でも同じ価値があるのか

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哲学的つぶやき
人生の意味を考えてしまう時、往々にしてその時の当人の人生は惨めなモノなんだ。惨めだから、人生に意味を見出して意義深い人生を生きたいと心が求めているのだ。そもそも、自分の人生に満足していて、充実した日々を送っている人は人生の意味など問わないだろう。余程、暇な人を除いて。

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幸福という現代の悲しき目標。
果たして幸福になることが人生の目的なのだろうか。確かに幸福であることに越したことはないが、幸福になることに固執していると返って人生を楽しむことができなくなるかもしれない。足るを知るという言葉があるが、幸せもほどほどで満足できるようにすることが大切なのではないだろうか。

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自由とは何だろうか?
自分が望んだことができるのならば彼には自由があると言えそうだ。この「望んだことができる」ということは自由という概念において最も基本的な定義であると言える。これに対して、意志の自由や自由意志と呼ばれるものは、形而上学的な性質を帯びている。人の意思決定を担っているのは大脳であると思われるが、この大脳も物理法則によって支配されている、そのようなものに自由は果たしてあるだろうか。もしもこのレベルでの自由があると言えるのであれば、それは形而上学的、超越的な意志を想定しなければならないだろう。

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自由①
カントの言ったことを又聞きしたのだけど、感覚的な欲望に従って生きることは自由ではないそうだ。次から湧いては消え湧いては消えていく欲望を満たすために生きるのは、それは欲望の奴隷であるということだ。カントはこの感覚的な欲望のことを傾向性と呼んでいるらしい。つまり、欲望は次から次へと生じていくものであり、我々をある方向へ突き動かす流れ、あるいは力を持っている。では、我々はどうしたら自由に生きられるだろうか。カントの議論を踏まえれば、欲望に流されず、理性によって行為を決めるということだろうか。あるいは、意志によって行為を決めるということだろうか。では、欲望と意志の違いであるが、欲望はある意味、条件付けによって生じる自然現象であるということができる。一方、意志は人間の内省と関係している。経験や知識というものから我々を良き人生に導いてくれるものが理性であり意志である。

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哲学と言うよりは自己啓発?
人生を充実させるには?
受け身的な活動よりも、能動的な活動をした方が充実感が増すのでは無いだろうか?
何故だろう?経験的にそう分かっているようだ。
週末、家でゴロゴロしてるよりも、外へ出て散策したり、スポーツしたり、あるいは、料理したり、アートしたり、モノ作りしたり…。そんな、週末の方が人生に満足感が行く気がする。

みんなも能動的に生きよう!

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幸せについて
幸福を追い求めても幸福は逃げていく?
生存競争に勝ち抜いてきた人類の脳は幸せになるようには必ずしも出来ていないようだ。なぜなら、例えば、森でリンゴを見つけたとする。見つけた時には「やったー」と幸福になり、食べれば「美味しい!」と感じて、この時幸せになっているようだが、その幸せは長続きしない。人間が得られるのはつかの間の幸せだけなのかもしれない。幸せが続かない理由は、自然界である森の中で幸せに浸って長い間に「ぼーー」としていたら天敵に見つかって、食べられてしまう。リンゴを得られて少しの間、幸福になったとしても、脳は自己防衛や危機管理の働きにスイッチを入れなければならない。脳は、自然界を安全に生き延びるためにデザインされている。長い間幸せになっていることは脳の本性からして不可能なのだ。深い瞑想などの特殊な状態を除けばの話だが。

ミニマリズムについて
物が減った部屋の中は、スッキリしていて心地が良い。
物はなければない程、心が軽くなる。
でも、生活や趣味に必要なものはきちんと持っておく。
余計なものを捨てたり売ったりしてしまおう。
仏陀は「子を持てば子について悩む」といったが、物も同じだ。大切なものがあれば、それが傷ついたりしないか心配し、盗まれたりしないか心配したりする。
物を持つということは執着心が生まれるということだ。

幸福に生きる、なんて抽象的に言ったら途端に人生は難しくなる。
健やかで楽しく生きられたらそれでいいな。

倫理
我々現在を生きる人類は未来の子孫の暮らしのことを考えて地球資源、地球環境、社会インフラを保全すべきか?死ねば終わり、人生はこの1回きりだと信じるのであれば、未来の人類がどんな思いをしようが構わないという態度を取ることもありうる。自分と無関係な人が不幸な目にあってもよいのか?これは倫理的な問題だ。我々の行為が未来の人々に影響をもたらすが彼らから我々には何の見返りもないとした時、どうしたら我々は未来の人々のことを思いやれるだろうか?

幸福は私たちの欲望によって隠されている。
欲望を払いのけた時、私たちは幸福でいるのだ。
私たちの本質は幸福であるということだ。

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神について
科学が発展しても、人間に不安は付き物だと思う。私の不安と言えば、例えば死とか、交通事故とか、健康を害する病とか、そんなところだろう。健康で幸福のまま生きたいと願うことは、逆に、不幸になってしまうことだって有り得るということだ。だから、幸福でいたいと願う。

人間は物理的な身体を持っているから、身体の障害持ちになったら、と不安になる。

運命は神が決めているのだろうか。
自分が将来事故に遭うのも運命なのかもしれない。
神を信じればいろいろ諦めがつく。
この体や心をくれたのも自然であり神だ。
自分にはもともと何も持っていない。
その上、幸福を願うとは、贅沢なことかもしれない。
健康に生かせてくれている神に感謝しよう。

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幸福は目指すものではなく、今あるものに感謝できることなのかもですね。

幸福は思考モードから感じるモードになって、はじめて感じられるものなのかな?でも良いアイデアが浮かんだときなどは考える喜びもあるか。

喜びは期待感。幸福は満足感?:thinking:

幸福な状態を願うということ自体が自らの欲望から出ている現象だ、と知るのが先決だろうと思うよ。

@Keitoku 感謝することで幸福を感じられるとは鋭い着眼点ですね。@anon22547673 さんが指摘するように、幸福を追い求めるとはそれは欲望によるもの。欲望とは「もっと」と欲することであり、それによって人間は満足をすることは無い。いや、一時的に満足感を得られると思うけど、長続きしないのが、欲望を満たすことによる幸福感だろう。

感謝とは、目の前にある、または自分が持っている対象に意識の焦点を当てる。一方、欲望は今ここにないものに意識を向ける。自分が持ってないものに意識を向けるということは、それは終わりのないことだろう。

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喜びと幸福は近い存在であるけど、別物でもありそうですね。けど、重なる部分もあるのかも。科学的に幸福を考えた時、それは脳内物質であり、代表的なものがセロトニン、ドーパミン、オキシトシン、エンドルフィンとかになるのでしょう。
喜びは確かに期待感に近いかもしれません。ここで言えばドーパミンでしょうね。満足感と言われた幸福はセロトニンということになるかもしれませんね。

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ひきこもりのご経験者は、ジャックラカンさんの対象aについてお考えになられましたか
というのも、ひきこもりによってかつての欲求を見失ってしまった人が多いのではないかと思いました。
かつての欲求を見失うと、それに代替するものを望んでいく欲求を見出せず、惰性なひきこもりから抜け出せない状況になりやすいと思います。

ヒキコモリになっても、あんま欲求とか減らなかったですね。体がだるい時は、布団の中で映画見たり本読んだりしていて、割と充実してるんですよね

かつての欲求といえば、小さい頃にしていた遊びを再びしたりしています。