コロコロの紙、ケースで切れるのがあるんや。いま、部屋に、斜めに\\長ーく剥がすものと、点線の所で剥がすのがあるんだけど、使いにくい。斜めのは、前回hikaruさんに教えてもらったように最初から剥がし目を折ってつけておくことが出来ずに、汚い部分が手にまとわりつくw
さし当てられるなら、それはいいなぁ・・・。
コロコロの紙を斜めに剥がすものがあるのは知りませんでした。
点線、意外とやりづらいですよねw
ケースでスパンと一応切れるのですが、意外とコツがいりました。こちらもさしを使うかもw
・いいところは、付いているケースを開けたまま、その辺に転がしてても汚い面が出ないところ。
・だめなとこは、滑りが悪く、床は無理。マットはOK。
床をコロコロすぐにするとくっ付いて表面がはがれたことあるので、皆さんはされないかな? 私は布物で一回転がして床でも使います。
お顔がどんどんと寝不足のひとになっており、ひどい。
寝不足はおだやかを阻害するのでよくない。
私は神を信じていない(存在を確信していない)けれど、
生きる知恵としての伝統宗教は信頼している。
善と悪を内包するにんげんが
連綿と紡いできた伝統宗教だからこそ
私にもフィットするのだと思う。
神学者であり現役の牧師さんが、
聖書は原本の無い写本の寄せ集めで
矛盾点もあり、
改訳も繰り返し行われている、
実に頼りないものだと言う。
そんなことを聴いた私は
却って聖書に惹かれるのでありました。
まさに人間的で、とても良い。
牧師さん曰く、
神は天災や疫病などのつらいできごとから
私たちを遠ざけてはくれないけれど、
どんな時でも私たちと共に居てくださると。
これは「そういうことにしときましょう」という、
理不尽に対するものの見方の提案で
とても良い知恵だと思った。
伝統宗教は、そういうフレームワークを提供してくれる。
眠たすぎて何をアウトプットしたかったのか
わからなくなってきた。
朝のお勉強もしたし寝よ。
おだやかのために寝よ。
今朝のカフェオレとジャムたっぷりのトーストおいしかったな
起きたらパスコの0.5点を探しに行こ。
図書館に行ってきました。
珍しく予約なしで行ったので、自力で探しました。
いつもだったら、サクッと聞くのですが、手間をかけるだろうから自分で探せるようになりたいと思ったけど、自力で探す方法が分からないため、番号から『自力で本の場所を探す方法』を結局聞きました。
結果、意外と散らばって置いてあって、きちんとは無理!ざっくり見て分からなかったら結局、聞くことになりそうです。聞いてくださいねとも言われましたw
『自力で本の場所を探す方法』は図書スタッフさんの時間を取らせただけでした。でも次からは安心して早めにさくっと聞けそうです。
良き記事があったのでシェアするでごんす。
「ウクライナ侵攻1年 報道を見てつらい人へ
~共感で疲れてしまわないために~(海原純子)」
2.感情の伝播
ウクライナに対して何かしたい、でも現地には行けないし一個人ができることがないと無力感を感じている方に、東日本大震災の時に提案した方法をご紹介したいと思います。東日本大震災の時も津波の被害を受けた沿岸部に単独で入り支援を行うことは難しい状況でした。悲惨な状況を報道で見て心を痛め、募金への寄付はできても他には何もできないと無力感を感じていた方に、「近くにいる人を被災者だと思い親切にしてみる」ということを提案したことがあります。道を歩いても買い物をしても、隣にいる人が被災者だと思うと知らず知らず親切に温かい気持ちで接することができるものです。これは自分の心の回復に役立つとともに穏やかな気持ちを相手に伝えることにつながります。
感情は伝播するという多くの研究報告があります。温かい気持ちを受け取った人がまた別の人にその感情を伝えることが拡がれば、閉そく感が漂う雰囲気を変化させる手助けになることもできるでしょう。日本にいるウクライナ避難民は2000人を超えているそうです(参考:出入国在留管理庁データ)。温かい気持ちで接したりちょっとした親切な行動をとったりすることは相手だけでなく自分の心の幸福感を高めるとされています。隣にいる人がウクライナと何かつながりがある人、と想像して温かい気持ちで接するなど試してみてはどうでしょう。共感をストレスにしてしまわないようにあなたの心を守りつつ優しい気持ちを伝えていただければと思います。
「ペイフォワード」や「良き縁となる」的なお考えがとても好き。
うちの家族の共用カレンダー、通院のことしか書いてない。
週のうち2〜3日は誰かがお医者。
老人と中年ひきこもりのお家。
親切をしてもらうと、
大事にしてもらったみたいで心が温まる。
この前、コンビニでちょっとした親切をしたのだけど
それが巡りめぐって戻ってきたのかなとも思う。
また親切をする機会が巡ってきたら、
誰かに温かみを手渡したい。
シャイおじさんのわい、
いつもお礼をする時に相手の顔を見れない。
車に対しては、視線を合わせず手を上げてペコペコ、
レジでお会計後にも受け取るレシートに視線を向けたまま
「どもぉ」つってペコペコ。
(「どーもおじさん」とあだなをつけられてそう)
いつかきちんと顔を上げてお礼を表現できるようになりたい。
レジでのお礼と言えば、
100円ショップで黒髪ロングのおねっさんが
お会計後に店員さんに「ありがとうございました」と
ハキハキと返答しているのを目撃したことがあって、
あれは本当にハートにズギューンと来た
猫背の店員のおねっさんも、背筋がピーンと伸びていた。
あのハキハキおねっさんには成れそうもないけれど、
せめて相手の顔を見るどーもおじさんになりたい。
もし50代まで長生きできたら、
「おおきに」言うてエセ関西人になりたい。
夜更かしだ。
寝ましょうね、寝ましょう。
精神科に通うようになったの、
仕事を辞めてからだから、
わいも薬を飲みながらなら
働けるのかなって、
ちょっと思ったりもする。
訓練から試してみる?(自分への問い)
なんか、ツイッタを見てると
若者のみなさん(24卒)の就活も3月からスタートしてるらしい。
(世間知らずのわい、就活をよくわかってない)
エネルギッシュで健康な若者でさえ
就活で打ちひしがれてしまうのだから、
ナイーブな我々は、
ボロボロになってしまうよね。
就職はマッチングだそうだから、
みなさんに、
よいご縁があるといいなぁ(祈り)
アンガーの方に移動させようと思います。
いいねありがとうございます。
嘘(社交辞令)VS正論
ちょっと思った事があるので書かせて頂きたくなりました。
最近体験した事で、社交辞令やお世辞を言われて、それに感謝の言葉で返すと真に受けるなよという空気感を出されたので、考えてみました。
そもそも社交辞令という文化が、今の日本を生きる上で合っていない文化になりつつあるのではないかと。
社交辞令を言う事で真に受けてしまい、困った事態になったり、人を傷つけたり、自分の首を締めてる事の多さに、日本人自身が疲れている様に感じる。
だから日本全体で、社交辞令というものを再度見つめ直すべきだろうと。
そもそも社交辞令という文化が無くても成立している国は多々あり、その方がスタンダード。そういった他国の人達も社交辞令やお世辞を全く使わないという事はないのだろうけど、少ないで済んでいる実情がある。そのやり方を少し日本も拝借したら良いのにと思った。
時には社交辞令は必要で、時には要らないのだから、配慮しすぎる今の日本の文化が現代では毒になっている。だからネット上で、人ってこんなえげつない事考えていたんだとショックを受ける人が続出してる現状。それを見て、また社交辞令を使って配慮しすぎるという悪循環からも抜け出せていない。
私自身、そんな考え方が根付いているから、正論を言い過ぎる傾向にある事も自覚している。
なので正論を言う事で、聞き入れてもらえないという壁には何度も悩まされてきた。
検索には、正論が正解だとは限らない。言ってる事は正しいが、それを言うのは正しくない。というのを見つけてその通りであると思いつつ、同時に矛盾してないか?という疑問も湧き上がる。
ここである記事を読んだ。確かになるほどな。生きる上での処世術としては一理あると思った。その記事の一文を載せます。
「コミュニケーションとは、黄色と青色を差し出し合い「緑色」という新しい色を作り出す手段であり、決して白黒をつける「勝負」ではないんです。
異なるものを全て「敵」と認識してしまうとコミュニケーションは成り立たない。」
確かに言いたい事は解る。けど、それって結局相性という話ではないのか?何故なら会話するというものの本質は、自分の意見を伝え合う行為ではないの?という所から始まってると思うから。異なった世界観を見せ合うというのは、意見だし、正論だし、時にはぶつかり合いにもなる。だからそれをぶつけられても、上手く自分なりに噛み砕いて消化すれば良いという話なのでは?コミュニケーションて。
なので自分には世間で言われてるコミュニケーションというのに違和感を感じる。人間を見てないと。
それに上の記事が言ってる事は、解決してるようでしてない。ただ、ある人間とある人間の会話が上手く噛み合っただけということでは無くて?
ただ、敵に挑むのではなく、もっと同じ仲間同士だという気持ちと感覚は持ち合わせた方が良いとは思うから、そこは見解の一致。
という事まで考えて、もやもやしたので長文になってしまいました。もし読んで下さった方がいれば、ありがとうございます。お疲れ様でした。
勝手に返信を付けるので、不快なことがあったらすみません。
難しい問題ですね。
空気が読めないのに社交辞令というものがあると知っている私は、褒められると、まず、それが社交辞令かホンネか疑うことが当たり前になってしまってて、疲れてしまいます。
これで大きな失敗したことがあり、今度会うことがあったら謝ろうと思って、偶然会えないか、会った場所をたまに捜索します。
>真に受けるなよという空気感を出されたので、
これは相手がひどい。せめて本気で行けと言いたい。(でも私はそういうタイプの人は嫌い)
想像ですが、緑みのかかったほぼ青色を言ってしまったのかもしれませんね。
自分の失敗なのに、相手が空気が読めないと思って動揺する。さじ加減が出来ないのに使う。
(でも普通になりたい願望のある私(ASD)は、初心者なので人のことは言えない。)
「緑」にするということは、その反応を見て、相手がこういうことで喜ぶんだなとかその程度とか、相手のことを理解するのに使うのかなと思いました。
ある質問を目にしました。
「ASDの人にしか好かれないのですが、普通の人にも好かれたい。どうすればいいですか?」
回答は、「はっきりものを言うので、そうなるのでしょう。ASDははっきりしたものしか分からないから」といくつかの回答の全部がそういう内容でした。
理解できる反面複雑でした。
社交辞令っていったいなんなんでしょうね。(率直な疑問)
同じく勝手に返信ですので、不快なことがあったらすみません。
個人の意見だけど、社交辞令が嘘100%だと問題なんだと思う。
色んな経験がある人は
自分にとっては簡単でも、人にとってはそうじゃなかったり、
それぞれの人にとってそれぞれの努力があることを知ってる。
それが慮れない、想像できない人が
表面的な事を適当にごまかす社交辞令が嘘100%になるのかな、と。
仕事だって
ベテランが鼻歌交じりで10分でできることを
新人なら1時間掛かっても60~80%の出来だったりするけど、
経験があれば、想像力があれば「よく頑張ったな、凄いよ」って言えると思う。
新人が頑張ってたら、周りがそう言ってるからそう言ってるだけ
っていう人は嘘100%になって「真に受けるなよ」っていう返しになるのかなと。
そういう人は「想像力が貧相で人を思いやれないバカです」って
自己紹介してると思って放置でいいんじゃないかな。
誰だってできない事があるし、誰だって分からないこともある。
生まれた瞬間に「天上天下唯我独尊」って言った釈迦だって
瞑想や悟りを色んな先人に教わりに行ったしわけで。
そんな想像力の無い可哀そうな人なので
「私もまだまだですが、あなたも頑張られてくださいね」
って返しでいいんじゃないかと。
上に同じく勝手に反応しちゃってすみません、スルーで構いませんので!
社交辞令についてふと考えたのは…
思っている本音で伝えたら壊れる関係性がこの世にはある、社交辞令という建前を使うことで円滑でいられる間柄もある、という事なんじゃないでしょうか
例えば、家族や友人通しで社交辞令するかって言ったらしっくりきませんけども
社会やご近所さん付き合いで社交辞令するのはまぁ分かるなぁって思うのです
それは社会や近所付き合いの中で本音で話し合った場合に起きる衝突を防ぐためであったり、程よい距離感を保つために言葉を選んでいるわけで…
適度な距離感、関係性を維持するために使われているんだと思います
なので、個人的には社交辞令を言われても意見の中身とか正しさを考えるというより、ある程度こんなこと伝えたかったんだろうなって事を踏まえた上で、相手との距離感を感じ取ることの方が多いかもしれません。
相手から、この距離感でいきましょうこれが丁度いいので、って言われてるもんだと受け取ります
社交辞令の言い合いの中で相手の本音が強く出てきたらそこをかいつまんで深く話すことで腹割って話せるようになることもありますし、社交辞令に対してこちらが突っ込んだリアクションして引かれたら、あぁこの距離感じゃないのね〜オッケ〜って思います。
社交辞令=嘘とは思わないですが、言いたいことを伝えるツールとしては回りくどいやり方ですよね、それはすごく共感出来ます
けれどもやはり要らん衝突を極力避けるというのもスマートな人付き合いってやつなのかなぁとも思うので、ある程度相手に合わせることで相手そのものへの尊重にも繋がるんだろうと思います。言葉のパーソナルスペースといいますか。
いや難しいですね、変なこと書いてて不快にさせてしまってないといいのですが…。読んでくれた方いたらありがとうございました
ご意見や励ましのお言葉、ありがとうございます。自分が投げかけた事に対して、真摯に向き合って下さり、嬉しく思います。
1日経ち、皆さんの言葉を聞き、考えた事としては
やっぱり本来、正論の人、感情的な人、素直な人、卑屈な人、どんな人が居ても良い世界なんじゃないか。そもそも、それをごった煮のようにしたような世界で生きている自分達は、それを元に会話が発生しているのだから、噛み合わない方が当たり前と考えた方が建設的な気がする。
それなのに、コミュニケーション能力を問われ過ぎる事自体に矛盾と歪さを感じる。その上で行われる社交辞令というのは、その歪みが生み出したものと考えます。刀を抜かないで、抜くなよ、抜くなよ。と間合いを見切り過ぎて時間かけすぎてるような。複雑化しすぎた社会的マナーの弊害があまりに大きいと感じます。
今の時代は、それが表面化しやすく、過敏に感じ取る人間も多い。
本当に根本的な対処を考えた時、自分と違う意見があって面白いと、思う視点の人間が増えたら良いなと考えます。
許容するという気持ちを持ち合わせたら楽になるだろうになと見てて思います。
図書館は月曜日が休みだってこと。いや知ってたんだけどね、いや知ってたん・・・。
たくさん書きこんでごめんなさい。気力がないので、優しい方へ流れてしまう。ただえさえ書き込みすぎかなって思ってるのに。
たくさん書き込んでごめんなさい!自分も多い方じゃないかと。
でも、ここのおかげで頑張れるので助かってるのは本当です。
おかげで鬱が改善方向に!
で、
朝から洗濯物干そうと思ったらめっちゃ寒い!
アレクサくん曰く、2度
洗濯ものは濡れて冷たいし、空気はもっと冷たいし
ちょっぱやで終わらせた!
ツイッタ見てたら流れてきた刺繍作品。
ウッヒッヒッヒ これ好き
ステッチを使い分けると、
いろいろな表現ができるのだねぇ。
刺繍に対して、
ある種のダサさ(くちがわるい)みたいなものを
感じていたのだけれど、
完全に私の誤った固定観念なのでした。
刺繍はお絵描きの手法で、何を描くのかは自由なのだ。
そんな私の刺繍生活は、
三角をひとつ縫ってから完全に停止しています ダメジャン
お相撲が終わったらやろ(いつもの先延ばしスタイル)
ひゃー これみて、かわいい、かわいくない?
個展、行ってみたい…
今で言う引きこもりやニートのような層は昔から一定数いたとは思うんだけど、彼らはどうやって日々を過ごしてたんだろう。
ネットも無い時代、膨大な時間を果たしてどう乗りきればいいのか。