ポンポンポンと短い文章で会話のキャッチボールするやり取るのに憧れていた。
恐らく一般的なLINEのやり取りってこんな感じだと思うのだけど、今までそういう人居なかったんだよなあ。
自分は話したいことがある時とそうでない時のギャップが激しくて、話したい時はつい多弁になる。子供が母親に話を聞いてもらうような感じかな。
でも、一般的には思い付くことが沢山あっても、自分のターンになったら、1言話して相手にパスするのが丁度いいんだと思う。その方がお互い無理がないし、知ることと知らないことのバランスがちょうどよく心地良い。だから、相手のことを知る楽しみがあって関係が長続きしやすいんだと思う。
さあて、今後どうなるか。どんな会話が繰り広げられるか、こうご期待![]()
中途半端っていうのは橋渡しの役割があるのかもな。
ハーフのミュージシャンが自然に日本語ともう一つのルーツの言語をシームレスに使いこなすのを知ってるし、それはその人だからこそできること。
純ジャパが同じようなことをしても飽くまでも日本人が外国語を織り交ぜてるって感じになる。それはそれでその人独自の上手い使い方があるのだけど。
バックボーンがアイデンティティになるっていうか。
完璧じゃないからコミュニケーションが生まれるんだよ。
それが生きているってことだよ。
IQって視力と同じようなところがあると思う。
現代社会ではどちらも高い方がいいとされる傾向があるけど、低IQも低視力もそれぞれだからこその素晴らしさがあると思う。
最近、知的障害のある方とお話したけど、独特の世界観を言葉にしてておもしろかったよ。
「あ、この人俺好きだ」って思った笑
高解像度の映像も素晴らしいし、抽象画もまた違った素晴らしさを持っている。
深く緻密な解説も「なるほど」ってなる時もあるし、それがかえって分かりにくい時もある。
ざっくりした感想が「確かにそうだよね笑」って分かりやすかったり。
そこに優劣は本来ないよ。
ただ相性があるだけ。
落ちてる時とか夜は長話したくなる時があるけど、日中は短いやり取りをすれば充分なのかも。
コンビニの店員さんと客の自分の距離感が寂しいとよく感じてた。でも攻撃されるわけじゃない。
それって父親と自分の関係もそうだなと思った。
父とは距離感があって寂しいなと感じるんだけど、暴力を振るわれたり、干渉されることはなかった。
それって良いことでもある。
寂しいけど。
みんな「こうあるべき」という幻想に苦しんでいる。
ジャッジされる方も苦しいけど、ジャッジする方もイライラしてストレスを感じる。
盲学校っていいな。って電車の優先席に座った視覚障害があると思われる若者2人を見かけて思った。
同じ障害を持った子同士での学校生活。
実際の話は知らないけど、その後の進路のパイプも学校が持ってるんだろうな。
めっちゃいいじゃん。
視覚障害は比較的社会から理解されてる。
分かりやすい障害って良いなあ。とコンプライアンス的にいかがなものかな発言をしてみる。
ぬいぐるみって探してみると案外どこで売ってるのかあんまり思いつかない。
トイザらスのぬいぐるみコーナーはいかにも子供っぽいのが多かった。もうちょっと素朴で大人が持ってても映えるのがいいな![]()
他の探すと案外見つからないものの代表でストラップがあるんだけど、どうやらお土産売り場には何かしらありそう。
買い物って余っ程相性が合う人とじゃないと気を使っちゃってストレスが溜まる。どんなお店に行くかと誰と行くかの組み合わせも関係してそう。
美術館、映画館、ライブなど鑑賞系は明らかに1人の方が気楽。
ひきこもりのコミュニティのみんなで食材の買い出しに行った時は楽しかったけどね。
前よりも断ることが出来るようになってきて格段に生きやすくなってきた。
自分は自分。と割り切れるようになり、自然と自分らしく生きやすくなってきた。
大概の人は馬鹿じゃないので、なんでこんなことするんだろ?馬鹿なんじゃないの?って言いたくなるようなことにはそれなりの事情がある。
今日は音楽を聴いて久しぶりに涙した。AIの選曲だけど、流れてくる歌の歌詞が響いた。テクノロジーすら自然の流れなのだと思った。
そしたら、一重になっていた左目が二重に戻った。
寝れば戻るのかと思って休みの日は寝るようにしたけど、戻らなかった。
身体は心で治すというけど、そういうことなのかもしれない。
恋心とは厄介なものだな。
困った。。
愛着を形成するのに恋愛感情は妨げになる(仮説)
以前、父性専門カウンセラーの人が「女性が父性を感じる男性と良い関係を築けるとその人の中の父性を育むことができる。しかし、その男性に恋愛感情を持たれるとその関係は破綻する」というような内容の事を書いていたのを読んだ。
父性以外でも人間的な成長を他者との人間関係の中で築くのに同じようなことが言えるのではないか。
もしかしたら仕事というのはそういう意味でちょうどいい距離感の関係性を築くのに役立つし、仕事上の利害関係のない関係性も役立つのかも。
相手に好かれようとしない関係性というのは貴重。
自分が断って誰かを傷付けたら、いつか逆の立場になって傷付く時が来るのがカルマの法則なんだと思うけど、逆に断られて傷付くといつか自分が断って傷付ける時が来るってことでもあるんじゃないかと経験を通して思う。
被害者になるといつか逆の立場の加害者側になる時が来るのかもと。
でその時に被害者とか加害者というのは思い込みでしかなかったと理解できる。
ただカルマの法則を恐れて行動を躊躇するとか窮屈に感じるなら意識する必要はない。
恐れてる内は信じることが出来ていないから。
チ。が教えてくれたこと![]()
昨日のカウンセリングで自分には会社の中で働くのが合ってないんじゃないかって指摘された。
将来はフリーランスで働きたいって思ってたけど、そういうことを考える余裕がなくなってた。
どんなビジネスをするかが問題。
社会的に不適切なことや失敗したと感じることでも、その時はどうしてその選択をしたのか、どんな価値観を大切にしてやったのかを評価するとその人を知ることができる。時と場合にマッチしなかっただけで他のケースでは有効かもしれないし、大切にしていることを活かせる場だったら問題ない。
自他の評価するのにも叱るのにも役立つ考え方かもしれない。