日本再興戦略

政治経済カテゴリで長らくコピペもとい、読書感想文を書いてきましたが、今回の「日本再興戦略」をもって、最終回にしたいと思います。(別のカテゴリで新連載を始める予定です。コピペの量を減らして、要約と意見の量を増やしていく予定です。)

ではさっそくはじめたいと思います。今回、ご紹介するのは、この本です。

落合陽一先生は、大学の教員をやったり、経営者としてビジネスを行ったりして、大活躍しているマルチな才能の持ち主、まぁ天才といってもいい人です。いろいろ難解なことをおっしゃるので、我々のような庶民には理解することが難しいのですが、最近セクハラ問題で文春砲をくらった「死ぬこと以外はかすり傷」が信条の編集者がわかりやすく編集しているので、頭があまりよろしくないアテクシでもなんとか読むことができました。

ちょっと納得できない部分もありますが、全体としては、まぁなかなか先見の明にあふれた提言だと思います。

・落合陽一の日本再興戦略とは?

ではさっそく、彼の「日本再興戦略」とはどんなものなのか?という点について、3行ではまとめられませんが、おおよそのところをざっくり見ていきましょう。

「欧米という概念を見直す」

日本は国策によって急激に近代化を果たした国である。明治時代以降に手本にしたのはいわゆる欧米型と言われる欧州型と米国型であった。

1945年以降は、米国主導で、戦勝国型を手本にして国をつくってきた。欧米という概念を一度見直してみるのがこの本の趣旨である。これは第一章で詳しく問う。

1945年以降の日本は、足並みをそろえ、官僚がトップダウンで政策を作った世界だったので、個人は自分の考えを明確に持たなくても良かった。しかし今、我々は個人の時代を迎えている。新しいスキームやスキルセットが必要とされる時代に置いては、考えるための道筋がないとフレームが作れない。

旧世代の教育を受けた人々が今後の世界に適応するためにどうやってモノを考えたらいいか?という基盤を習得することが必要である。第二章では、日本とは何か?日本人とは何かを歴史から考える。

今、「日本をなんとかしないといけない」という思いを多くの人が持っているはずだが、今の日本人の意識はネガティブすぎるので、意識改革を行わなければ、その方法がみえてこない。

生産性が低いことはよく言われることであるが、今の社会システムであれば、生産性が低いのは当たり前である。我々が受けている教育は人に言われたことをやるのに特化していて、新しいことを始めるのに特化していないからだ。

20世紀の工業社会においては、そのほうが都合が良かったと言える。車やテレビを作って儲ける時代においては、皆が均質の教育を受けていて、何も言わなくても足並みが揃うので、コミュニケーションコストが低く、同調によって幸せを感を演出することができた。

幸せは演出され、成長は計画されてきた。しかし、今は工場さえも機械知能化されていっている。その作業工程で人は足並みをそろえる必要がない。少数の生産性の高いデザインチームと作業機械への親和性があればよい。

高度経済成長の正体とは、「均一な教育」、「住宅ローン」、「マスメディアによる消費者購買行動」の3店セットだと考える。

国民に均一な教育を与え、住宅ローンにより家計のお金の自由を奪い、マスメディアによる世論操作を行い、新しい需要を喚起していく戦略である。

しかしこの戦略では、日本人一人あたりの生産性はどんどん下がっていく。今のシステムでは、日本でやる必要のないことも日本でやってしまうし、働く必要のない人を高給で雇わなければならない。

これは、隠蔽体質、炎上気質、パワハラ、いじめと行った労働問題を引き起こすもととなる。

このような機能しなくなったシステムを見直して、新たな価値が生まれるシステムを作り直す必要がある。

新たな価値を創出するには、一つの技術を極めるだけではなく、様々な知識や技能を身につける必要がある。

特に、経営者にとっては、アートの価値観は大事であろう。なぜなら、アーティスティックな価値観や考え方がないと、人が時間をかけて作ったものや、深い価値のあるものを正しく評価できないからだ。

そして、教育、研究、経営、アートに影響を与えるのが、AI、VR、5G、ブロックチェーンといったテクノロジーであろう。

第三章では、テクノロジーは日本と世界をどう変えるのか、テクノロジーを日本はどう生かしていくのかというテーマを詳しく考えていく。

今の日本は、経済と教育と文化と技術が密接に結びついたエコシステムを考えることが求められている。

第四章では、人口減少、少子高齢化が進む日本におけるグランドデザインを描き、第五章では、経済、仕事、政治、国防、教育、などの切り口から、日本再興戦略を語っていく。

・アテクシの意見

日本はこの先どうなっていくのか?

現状のままであれば、日本はこのまま衰退して、別の国に併合される運命ではないかと思います。歴史を見ても、国の興亡は頻繁に起こっているわけで、日本だけが例外ということはないでしょう。(まぁ、オカルト界隈には日本は永遠に続く神の国であるみたいな話もないことはないのですが、それは一旦置いておきます。)

最大の問題は、少子高齢問題ですね。人口が減っていくということは、それだけ富=付加価値を生み出す人が減っていくということですね。日本は天然資源が少ないので、人が減るということは、富を生み出す力が比例して減っていくということですので、その富によって支えられてきた社会保障や福祉も削減されていくことになるはずです。

若いうちは、社会保障に頼らずともなんとかなると思いがちですが、歳をとって、体が不自由になったり、頭が働かなくなったりしたときに、ある程度の資産がなければ、かなり厳しい老後を強いられることになるでしょう。

しかし、現状、日本人の大半は、老後の生活を手厚い医療保険や年金といった社会保障に頼っているわけで、自分が築いたり、先祖から受け継いだ資産で老後の生活のまかなっている人はそう多くはありません。

そうした未来が到来することをみなさん、薄々は感じているかと思うのですが、嫌なことは先延ばしにしたい習性が人にはあるので、見ないことにしている人が大半なのではないかと思います。

そうこうしているうちに、少子高齢社会はどんどんと進展していき、解決不可能な段階にまで達してしまった気がしないでもないのですが、まだ諦めるのは早いのではないか?というのが、この本を読むと伝わってくる気がアテクシはいたしております。

落合先生のご提案はマイルドな現代日本人には過激だと思われる部分もあるので、そのまま受け入れることはできないかもしれませんが、参考にすることで、さまざまな問題を解決するヒントになるのではないかと思います。

そんな感じで、まったりと、この本を題材に感想文を書いていきたいと思います。

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「欧米とはなにか」

・欧米をそのまま真似する時代は終わった。

そもそも、「欧米」というものは存在しない。欧州と米国が一緒だと思っている西洋人は誰もいない。日本人は、外来的に入ってきたものをすべて「欧米」と呼んで、いろいろな分野で各国の方式を組み合わせてきた。

そして、いいとこ取りをしたつもりが、時代の変化によって悪いとこ取りになっているケースが目立ち始めている。だからこそ、まずは日本が近代化以前に得たもの、近代化以後に得たもの、そして今、適用しないといけないものをしっかりと整理することが大事である。そのうえで、欧州のどこを真似するかという議論は一旦やめて、「日本には何が向いていたのか」、「これから何が向いているのか」を、歴史を振り返りながら考えていかないといけない。

・アテクシの意見

西洋に追いつけ追い越せの時代は先進国の技術や文化をそのまま真似すれば、それなりの文明国になれたと思っていたわけです。そのまま西洋を輸入しても使えないものは、和風に改良して使っていたと思います。和洋折衷というやつですね。

しかし、時代がすすむにつれて、人類の文明自体が頭打ちになってきたわけで、真似をすれば豊かさが倍増するという時代でもなくなってきたわけです。これからの日本が豊かさを維持していくためには、真似だけではなく、日本独自の創意工夫が必要になってきそうですね。

・公平にこだわり、平等にこだわらない日本人

平等とは、対象があってその下で、権利が一様ということ。何かの権利を一箇所に集めて、それを再分配することによって、全員に同じ権利がある状態を指す。

それに対して、公平はフェアということである。システムの中にエラーがないことや、ズルや不正や優遇をしないということ。

平等と公平は全然意味が違うし、本来関係がない。例えば、試験でカンニングなどの不正が起きると怒るが、教育機会の差があるひとが、同じ試験を受けることに対しては気にしないみたいなこと。

すなわち、日本人は、ゲームがフェアであることは意識するけれども、権利が平等であることはあまり意識しない。

江戸時代でいうと、代官が片方に偏った判決を下すのは不公平に感じるが、士農工商のような不平等な身分制度にはさほど違和感を感じていないこと。

欧州のようにクオーター制を導入して、要職の一定比率を女性にするように法律で定めたら、男性は公平ではないと反発するはず。

欧州の方式をそのまま日本に当てはめようとしても、うまくいかない。すべてを平等にするようなシステムではなく、適材適所の人材配置ができるような仕組みを公平にジャッジするシステムが必要である。

・アテクシの意見

資源に限りがある中で、平等を完全に達成することは不可能であると考えます。だからといって、もっとも富めるものと最も貧しいものの差が開きすぎるのも問題です。そして、ある程度の機会平等という公平さは必要でしょう。

貧富の差がある程度あるのはいたしかたないにしても、再チャレンジができるように、教育機会を何歳でも持てるように国が教育費を援助すべきだと思います。

これからの時代は生涯学習が趣味ではなく、生きるためにも人生を充実させるにも不可欠なものになっていくだろうと思います。

・「西洋的な個人」の時代不適合性

日本が近代的個人を目指し始めたのは、1860年頃でそれから150年ほどたったが、いまだに日本には個人によって成り立つ国民国家という感覚がうすういように感じる。むしろ個人に伴う孤独感のほうが強くなっているのではないか。

江戸時代には、日本人は長屋に住んで、依存的に生きていた。戦国時代以降、自然に成り立った地方自治の境界線を保ちながら、その連合国家でなんとかうまくやってきた。

それなのに、日本は自分から依存を切ってしまった。本来、江戸の日本には、複数の職業があって、そのうち何個かの職業を一人が兼任して、皆で助け合いながら、働いてきた。

AIの時代にいかに食いっぱぐれないか?という話題ばかりが出ているが、もともと日本人はひとつの天職にしばられた世界観には住んでいなかった。ほとんどの人が百姓だったのである。百姓とは100の生業を持ちうる職業のこと。

西洋的思想の根底に流れるものは、個人が神を目指す全能性に近づいていくという思想である。それに対して、東洋的思想とは、自然です。日本人はどこまで行っても、自然の中にある同質性、均質性に基づいている。

欧州や米国は、人間個人の権利を最大化しようとして、結局、部分と全体の間を修復できなくなった。

個人に平等に権利を与えて、全員が良識ある判断をすると仮定して、一人一票を与えたものの、選挙をしてみたら全員にとって価値のある判断にはならなかった。集団の中で、個人はそんなに正しく判断できない。ポリティカルコレクトネスやポピュリズムの台頭は西洋個人主義の限界点を示している。

ではどうすればいいのか?個人としての判断をやめるといい。自分にとって誰に投票すれば、得をするのか?ではなく、わたしたちにとって、だれに投票すれば、みんなが得をするのか?私達の範囲は、学校でも会社でもよい。

個人のためではなく、自らの属する複数のコミュニティの利益を考えて意思決定すればいい。元来、我々には、西洋的な、依存なき個人に立脚する考え方は戦略的に向いていない。

いくつものレイヤーやグループに分かれて人生を重層的に生きているわけですから、コミュニティ同士の判断基準を比較しながら、意思決定していく必要がある。

・アテクシの意見

最近は、働き方改革などで、副業を認める会社も増えつつあり、一つの仕事を一生やっていくというスタイルは古くなっていくのかもしれません。しかし、スペシャリストの仕事はこれからも必要とされるでしょうし、ひとつのことを長くやっているほうが、スキルが向上することで所得も増加しやすいとはいえます。

もちろん、AIの登場など、科学技術の進歩によって、個人のスキルが陳腐化することはあるかもしれませんが、キャリアの長さによって仕事の質が決まってくることは、これからも変わらないでしょう。

そうなると、あれもこれもと手を出して、器用貧乏になったあげく、低所得のまま一生を終える人も多そうです。もちろん、あれこれ手をだして、自分の才能にぴったりの仕事が見つかれば、万々歳ですが、なかなかうまくいかないことは、現在の社会を見ればわかります。

AIの発展によって、個人の才能が見つけ出されやすくなるかもしれないので、将来的には希望が見いだせそうですが、限りあるお金と時間を使って、自分のやりたい仕事に対する教育投資を行うのはかなりのギャンブルだと思います。まぁそれでも人生は短いのでやるしかないのですが・・・。

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・ワークライフバランスからワークアズライフへ

西洋的思想と日本の相性の悪さは、仕事観にもあらわれている。ワークライフバランスという言葉が流行っているが、ワークとライフを分けること自体が文化的に向いていない。

日本は歴史的にも、労働者の労働時間が長い国家である。大和朝廷の時代にも、下級役人は長時間労働している。1年のうち350日は働いて、そのうち120日が夜勤というような生活であった。

一方、農民や上級役人などは、生活の中に労働を含む文化を持っている。しかし、それが過労につながらなかったのは、ストレスが少なく、生活の一部として働いていたからである。

良好に行くときに、スマホを持っていくとオンとオフの区別がつかないので良くないという話があるが、オンとオフの区別をつける発想自体がこれからの時代にはあっていない。

無理なく続けられることを、生活の中に入れ込み複数行うのが大切なのである。

濃厚主体の社会において、100の細かい別々の仕事をしているという意味で百姓という言葉があるが、それがストレスなく生活と一致している様式が美しいのである。

本人がストレスを感じないのであれば、仕事をし続けていても、旅行先でスマホをいじり続けるのも別に問題はない。つねに仕事も日常になったほうが、アップダウンの波がない分、むしろ心身の負荷が低いと言える。

だから、我々が西洋的なワークライフバランスの発想にとらわれる必要はないのである。明治時代のときにいきなり西洋化した我々は、今いきなり東洋化してもいいのである。歴史の揺り戻しの中、今は、自然で集団の時代に突入しつつある。

今の日本は登用化したほうが、イノベーションがより起きやすい。日本人は個人として異端にはなりにくいが、集団として異端にはなりにくいが、集団として異端になるのは得意だ。個人ではなく、バンドを組んでイノベーションを起こせばいい。

会社という組織もうまく今の時代にアレンジしなければならない。会社はそもそもギルドであり、組合のようなものなので、人が自由に出入りできる商業的利益に基づいた組織なのである。

しかし、日本の会社は、社会=ソサエティに近いものになってしまった。社会という言葉の社はやしろ、会は会合を意味する。社会とは、中国語ではある道祖神を集めた会合という意味がある。福沢諭吉は当初、ソサエティを、仲間連中と訳したが、それではなじまず社会という語が定着した。

社会には宗教上の教義もイデオロギーもあるので、離脱したいと思っても許されない。日本の会社は社会になってしまったので、会社のために人は過労死するほど働く。

ギルドのために人は死なないが、社会のためには死んでしまうのである。

こうした日本の会社のあり方は、たまたま高度経済成長期にはうまくハマったのであるが、今の情報化社会にはそぐわない。

会社に限らず、今の日本には、閉鎖的な村が多いが、これをより開かれたムラ、コミュニティにしていかないといけない。封建制度のときはムラから動くことも、ムラを変えることもできなかったので、ムラがすごく暗かった。

インターネットの時代においては、このムラを自分でつくったり、好みのムラを探して移動することができる。今の日本が楽しくないのは、オープンな村の数が少ないままに、各人が個人化して孤独になっているからである。

これからの日本に大事なのは、色々なコミュニティに所属しつつ、そのコミュニティを自由に変えられるような社会である。

・アテクシの意見

たしかに仕事が好きで、いつまでも働いていたいみたいな人にとっては、ワークライフバランスを強制されるのは不愉快なことだと思います。たとえ過労死したとしても、(メンタル的には大丈夫でも物理的な限界があるため)本望でしょう。

しかし、特に楽しくもなく、やる気もない仕事で生活のために働くひとにとっては、それなりの給料とそれなりの休みがほしいのもまた真理です。人の嫌がる仕事(きつい汚い危険の3kと呼ばれる仕事など、しかも給料も安い。)につかざるをえない人はもっと給料をあげてほしいし、休みもほしいと思っているはずです。

そういう仕事でも、給料があがったり、社会的な地位が上がれば、誇りを持って働くことができるようになるとは思いますが、現状ではなぜか辛い仕事ほど給料が安いという誰得?(経営者や資本家が得する)な状況になっているので、ワークライフバランスをうるさく経営者や資本家に説く必要があるわけです。

AIが発達して、誰もが自分のDNAに眠っている才能を活かせる職業につくことができるようになれば、ワークライフバランスも必要なくなるのかもしれませんね。

つづく。

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「欧米とはなにか?つづき」

・「わかりやすさ」の対局にある東洋思想

幸せの概念は、明治以降の産物です。昔は幸福と言っていたのが、幸せになってしまったことで、ハッピー(幸)&ラッキー(福)のうち、ラッキーが抜けて、ハッピーだえになってしまった。

今の日本人はメディアの基準に照らし合わせて「とにかく幸せでないといけない」と信じ込むようになってしまった。いつのまにか幸せ依存症になってしまったのである。

愛も明治以降に日本に入ってきた概念である。きずなは昔からあったが、愛はなかった。愛が情熱的な感情を指す言葉であるのに対して、きずなはステート(状態)なのである。きずなは状態なので、永遠に続くこともある。しかし、愛はあくまで感情なので、熱したり冷めたりする。

たとえば、日本人の伝統的な老夫婦は「愛している」とは口で言わずに、静かにたたずむイメージがあると思うが、あれはすごく日本的である。西洋の夫婦関係は、年老いても愛を語る美しさがあるが、きずなそれ自体もまた美しい関係性である。

福沢諭吉などの知識人は、明治時代に西洋社会から輸入した概念の訳語をほとんどつくった。しかしそれは突貫工事であり、時代に合わせて修正する必要がある。しかし、それを修正するまえに、日本は第二次世界大戦の敗戦国となり再び米国にグランドデザインされてしまった。

我々は東洋人であるのに、あまりに東洋を軽視しがちである。我々は幸福であるべきか?といった問いかけに日本人はなじまない。西洋的な思想は言葉の定義が明確であり、わかりやすいという魅力があるが、その対極にある身体知や訓練によって行間を読む文化である東洋思想を重視すべきではないだろうか?

俳句を理解するにも、まずは東洋文化を理解しなければならない。理解できないのは自分のせいなのだから、修行しようという考えが浮かんでくる。わかりにくいものを頑張って勉強することで理解していく。それが東洋的な価値観なのである。言外の意味を修業によって獲得する。

一方、西洋の精神は、個人主義で、皆が理解する権利があると考える。読み手が自分で修行しろ、というのはとんでもないことで、読み手のところまで降りていく必要がある。

・アテクシの意見

現在はわかりやすさの時代であると思います。さるでもわかる〇〇やら、わかりやすい解説のユーチューブがもてはやされていますが、その大部分はわかったような気にはなっても、すぐに忘れてしまって、あまり身についていなことが多いような気がします。

とはいっても、わかりやすい本や動画をきっかけにして、自分でさらに深く調べるか?というと、現代人は忙しく、ひとつの趣味に没頭する時間がありません。そうこうして、また忘れたころに同じ内容のわかりやすいコンテンツを消費して、再度、わかった気になるわけです。

そう考えると、情報が爆発的に増えたインターネット社会においても、その情報をうまく活かせる人と、活かせないひとがいるわけで、情報の本質的な部分を理解して、うまく利用できる人は今も昔も限られているように思えます。

・日本というブロクチェーン的な国家

政治のあり方という点でも、明治以来の西洋的国民国家による中央集権体制は日本には向いていない。

ビットコインのような中央集権的ではない統治機構が日本には向いている。つまり、地方分権による意思決定が向いている。

日本が地方分権で一番うまく回った時代は、平安時代と江戸時代であった。

特に明治維新の前の日本は、地方分権の極みのような状態であった。武士という公務員の下で各藩は統治されうまく回っていたのだ。

しかし、明治以後、日本はヨーロッパナイゼーションとアメリカナイゼーションによって、中央集権化して行った。

地方自治体が国とは違う独自の政策を行って、独自の文化圏を作ることで活力ある社会を作っていく。

地方自治の流れを 加速させるためには、やはり財源が必要である。現在のふるさと納税は、モノで釣っているが、そうではなく、自然と税金を払いたいなと思うような地方自治が求められる。

政治への参画意識は、ローカルな問題にしか向かない。ローカルな問題ではない話題をテレビのニュースで流しても、全てが他人事になってしまい、意思決定に影響を与えないので、自分ごととして問題を捉えさせる必要がある。

そのためには、教育制度を変える必要がある。今の近代社会を成り立たせる公教育は、ほぼ洗脳に近いものがあり、西洋的理念(人権、自由、平等など)個人のビジョンがぼやけてしまった。

自己決定をするためには、何がほしいのかを選択し、そのためには何をやるべきなのか?ということを練習する必要がある。欲しい物を我慢するだけの教育では、意思決定をする能力を育むことはできない。

教育を変えて、日本人の意識を変え、地方自治を強化し、ローカルな問題を自分たちで解決できるようにすること。つまり、帰属意識と参加意識、自分たちの選択が意味を持っている実感を、それぞれの人々が感じ、相互に依存することから、日本再興は始まっていくのである。

・アテクシの意見

中央集権という統治方法も社会がまだ未発達で、開発の余地があるときは、有効であったと思われます。むしろ、開発独裁という言葉があるように、権力をひとつの場所に集めることで、スムーズに意思決定ができ、それがみんなのためにもなったという時代は確かにあったことでしょう。

しかし、ある程度インフラなどの物質的な環境が整ってきた現在、人々の考えも多様化しました。人の欲望には限りがないので、最初は、水道によっていつでもきれいな水が飲めることがありがたかったと思うのですが、次第にそれでは満足できずに、次は温かい水が出るようにしてほしいとか、値段を下げてほしいとか、いろいろな要求が出てくるわけです。

そして、みんなが同じような考えであればいいのでしょうが、人によっては水が温かくなくてもいいとか、安くなりすぎるのも問題だとか、いろいろな意見がでてきて、まとまらなくなってしまいます。それを強い権力でひとつにまとめようとすれば、反発が起こり、統治がうまくいかなくなってしまいます。

ではどのようにすれば、そこに住む人々が自分たちで問題を解決していけるようになるのでしょうか?というのが、この章の問題提起だと思いますが、アテクシといたしましても、地方の問題は地方で解決すべきだと思います。

外交や防衛など、国でないと解決できない問題もたくさんありますが、街灯のとりかえとか、道路の敷設とか、公園の整備とか、そういうローカルな問題については、地方自治で解決できることが大半だと思うのです。

しかし、地方には財源がないので、なかなか中央から独立してなにかをやっていくというのが難しいわけですが、税制を変えて、地方にも直接お金が入るようにしたりして、なんとか地方の独自色が出せるような政治が行われることを期待したいですね。

・日本型イノベーションを定義する。

戦後は近代的な生産様式をより複雑な工業生産様式にうまく変えることができた。戦後の工場は同じものを大量に安く作ることに集中していたが、今は、個々人のニーズに合った多様なものを柔軟に作ることを求められている。

企業は大企業である必要もなく、小さい会社がたくさん生まれて、大きなプラットホームの中で切磋琢磨していくような環境を目指す。スマホの世界のようにアップルやグーグルといったプラットフォーマーの上にメルカリやヤフオクなどのサービスが乗っかっていく感じ。

マンボウは10万から100万個もの卵を産むが、その中で成魚になれるのは10から200匹くらいである。イノベーションはこのように厳しい環境からしか生まれない。

同様に、日本は新しいイノベーションを生むためのエコシステムを作らないといけない。参考にするのは、シリコンバレー型、シンガポール型、中国深セン型のようなスピード型である。

日本は、トヨタに代表されるように生産は得意である。足りないのは、IT的なソフトウェアのカルチャーだけ。

本当は、戦後50から60年の2000年頃のタイミングで大きく思考を転換するべきであった。しかし、ライブドア事件のあたりで、日本のIT変革の流れは止まってしまった。

国産のサービスを守るための障壁を作ることはとても大切なことである。しかし、日本はIT鎖国ができなかったせいで、中国のようにアリババやテンセントやバイドゥを生むことができなかった。

2000年代の日本は、IT鎖国をした中国をファイアウォールと揶揄していたが、結果として中国のほうが正しかったのである。

2000年頃に日本が変われなかった原因は2つある。ひとつ目は、大きな社会変革を起こすには、まだ伝統的な日本企業が強すぎたこと。2000年当時は世界第2位の経済大国だったし、米国の半分のGDPがあった。しかし、2010年には中国に逆転され、中国のGDPは日本の2倍になっている。米国は日本の4倍にもなった。

2つ目の原因は、日本人の意識とものの考え方である。日本人の意識が昭和だった。今なお日本には、昭和の意識が残っているが、2000年当時は昭和色がもっと濃かった。

日本のように、フランス並みの歴史があって、中国並みの生産設備があって、アメリカ並みの金融市場がある国というのはまだチャンスが有る。

日本は明治のころは欧州にならい、戦後は米国にならってきたが、今はお手本がどんどん多極化している。中国にも、シリコンバレーにも、シンガポールにもフランスにも傚わなければならない。

今のインドは江戸時代の日本によく似ている。士農工商のようなカースト制度があり、そのカーストが自由経済とうまく折り合いをつけている特殊な事例である。インド型社会は精神性という点で、日本に一番適合しているかもしれない。

・アテクシの意見

日本の強みを活かしながら、新しいテクノロジーを取り入れることで、世界と渡り合えるような産業を生み出せればそれはとてもいいことだと思います。

たしかに、シリコンバレーのマネをしようと、表面上のテクノロジーやサービスを取り入れたとしても、うまくいかないでしょう。グーグルやアップルなどの米国の産業が世界を席巻している理由は、サービスが優れていることはもちろんのこと、彼らの文化や文明がベースとしてあるような気がします。(もちろん中国のように国策として自国の産業を有利にするために政治的な動きもあったとは思いますが。)

お役所などを見ても、手続きはいまだ紙の書類に手書きで記入し、ハンコを押さなければなりませんので、お役所サービスのペーパーレス化が完了するまではまだまだ時間がかかりそうです。

個人的にはお役所だけではなく、さまざまな手続きがインターネットで完了するようにしてほしいですし、物流にしても、人の移動にしても、自動運転車やドローンを使うことで、無人化、自動化を推し進めてほしいと思っております。

キャッシュレスサービスがコロナウィルスの影響もあり、かなり浸透してきたような気がしますが、できるところから自動化や機械化をすすめることで、人手をなくし、余った労働力を機械化や自動化が難しい介護などの労働集約的な業種に振り分けたほうが生産性があがるのではないかと思うのです。(もちろん、介護もできるなら早めに、介護ロボットの開発等により、自動化、無人化をなしとげてほしいものですが。)

しかし、そういった自動化や機械化や無人化は、既存の産業における改善にすぎず、革新的なイノベーションとはいえないでしょう。(改善の積み重ねがイノベーションであるという意見もありますが、ここでは、人類の価値観を根本的に覆すようなイノベーションを指します。)

しかしながら、革新的なイノベーションをおこすためにも、改善の積み重ねによる既存の産業の自動化や機械化はすすめる必要はあると思います。というよりは、むしろ、既存の産業の生産性を上げて、人がもっと暇な時間を持てるようにしなければ、革新的なイノベーションは生まれづらいのではないでしょうか?

生活を営むための仕事に追われる毎日では、目の前の作業をこなすだけで一日が終わってしまいます。新しいビジネスや技術開発や研究などは、暇な時間と精神的な余裕がなければ、なかなか取り組めるものではありません。

日本的イノベーションを起こすためにも、機械化や自動化を押し進めていく必要がありそうです。そのためには、企業や個人の努力だけではなく、政府も規制緩和や経済的な支援を行うことが大切なのではないでしょうか?

・平成という破壊の時代を超えて

「欧米」という概念とともに、近年の日本人が振り回されがちなのは、グローバル化という言葉である。グローバル化はきちっとしたローカルがあることによって成立する。ローカルがないままにグローバル化を叫んでも、結果は生まれない。英語だけが喋れて何も出来ない人が増えるだけだ。

グローバル人材に必要なのは英語とよく言われるが、グーグル翻訳などのAI翻訳が進化した時代に同じことが言えるのだろうか?

発信する内容もないのに、英語を学んでも意味はない。

2000年以来、必要としている業態転換に成功するためにも、まずは「欧米」という幻想から解き放たれる必要がある。

我々は、平成という時代を通して昭和モデルから脱却しないといけないと思いながらも、最後まで脱却できなかった。昭和モデルをIT化できなかっただけでなく、昭和的なものの重要性を軽視しすぎて、昭和の遺産を食いつぶしてしまった。

昭和を破壊してしまった結果、何が本当に大切なものなのか、わからなくなってしまったのが今の状態である。平成もまた先人の遺産を食いつぶしただけで終わってしまった。次の時代は同じ過ちを繰り返さず、新しいアイデアを持って、創造豊かな社会を作っていかなければならない。

・アテクシの意見

平成という時代は昭和から地続きの時代であり、新しい時代という感じはしませんでしたね。たしかに、インターネットやスマホなどの新しいガジェットが登場して、アニメや漫画などのサブカルチャーがクール・ジャパンといわれるほど、メインカルチャーに近くなった時代ではありましたけども。

令和になっても、あまり平成と変わらない時代が続くような気がしていたのですが、コロナショックによって、日本どころか、世界が様変わりしてしまいました。

インターネットを中心としたデジタル社会がさらに進化した状態で、進んでいくのではないかと思うのですが、デジタル社会に適応できる人と、できない人の貧富の差がますます開くような気もしますね。

個人にできることは、社会の変化を敏感に嗅ぎ取って、それに対応していくことしかないような気がしますが、それもなかなか難しそうです。日本再興戦略がうまくいって、能力が高くない人もそれなりに幸福になれる社会が到来することを祈るばかりです。

第二章 日本とは何か?

「日本の統治構造を考える」

日本とは何か。我々は何を日本だと思っているのか、その問いを考えるに当たり、まずは古代の日本を振り返るのがいいのではないかと思う。

「出雲VS大和」の争いは、日本の統治構造を形づくる上で決定的な影響をもたらした。この戦いには大和側が勝って、大和が4世紀ごろに日本を統一した。そこから日本は日本として成立し始めた。

その後に、西暦645年、大化の改新が起こり、律令政治が始まる。この大化の改新によって、日本の基本スタイルが生まれた。日本の中心に天皇制という概念を持ってくるけれども、天皇が政治をするわけではなく、その横にいる官僚、当時の中臣鎌足などが政治を行うというスタイルである。

天皇家に権力を集中させるより、権威と権力を分けたほうが、うまく統治できるという考えである。その後、1300年にわたって、この統治構造に大きな変化はない。

これは、「日本とは何か」を考える上でまず知っておかないといけないことであろう。

「イノベーティブな日本の宗教」

一般的に宗教とは、ブッダやキリストのようなカリスマ性のある教祖が存在し、その後コミュニティを作る中で自発的に生まれてくるものだ。

それに対して、日本では、統治者と国が国策として宗教組織を生み出した。国が日本誕生についての神話を編纂し、イザナギ、イザナミという神の物語を編み、その子孫が天皇であるという神話の編纂を行ったのである。

他の国の統治者もこういった手法を取ることがあるが、日本の場合、このデザインが2000年近く続いていることが非常にイノベーティブなのである。

さらに興味深いことは、国が神を設定したのにもかかわらず、日本が天皇一神にならず、八百万状態になったことである。その理由は、おそらく大和が出雲を滅ぼさなかったからであろう。

神無月の語源として、10月に全国の神様が出雲大社に集まり、諸国に神様がいなくなるから、神無月になったという説があるが、出雲にも神様が生き続けたのである。

すなわち、八百万の神様の中に、天皇の系譜はひとつの存在として入っているだけで、統一権限を持っていなかった。日本は神様の世界も、手法としては民主的なのである。この制度はギリシャなどに見られるが、神の連合会議を用いてそれ自体も信仰とするような特徴は現代の他の国ではとてもありえないものであり、明らかにイノベーティブなデザインだと考える。

言い換えると、日本は国教を定義することなく信仰を定義できてしまった特殊な国であるといえる。おそらく、中臣鎌足から始まる系譜において、藤原不比等自身は、神話まで作るくらいなので、一神教にしたかったのだろう。しかし彼の誤算は、自然信仰を外せなかったことにある。

ただし、一神教ではなくても、多くの日本人は、天皇陛下のことを敬っているし、天皇制が大切な文化であると考えている。

明治時代から昭和初期にかけては、天皇一神教政策を強めていったが、戦後はもとに戻った。この明示から昭和初期の70年間は、日本の歴史の中では特殊な時期であって、天皇一神教統治スタイルは日本が長く行ってきた統治構造とは異なったものである。

戦国時代までの日本の歴史は、精神構造の主体として天皇があった上で執行者の地位を争っていく構図だった。執行者の地位を巡って、豪族や武家が勢力争いを行うわけだが、それがピークに達したのが、戦国時代ではなかろうか。これは我々にとっての世界大戦といえるだろう。

この世界大戦では、2つの選択肢が存在した。ひとつは秀吉的世界、中央集権の自由経済的なオープンな世界で、外の国を攻めるなど、外交的成長戦略を考える。

もうひとつが、徳川的世界、非中央集権の地方自治で、内需に頼る鎖国戦略である。

最終的に、秀吉的世界は長く続かずに、朝鮮出兵なども失敗し、徳川に滅ぼされてしまい、その後、300年にわたり、日本は徳川的世界になった。

徳川的世界である、分割統治、地方自治スタイルは日本に向いていた。江戸時代には、通貨も地域ごとにたくさん生まれて、文化が栄えた。日本は同じ国の中でも、沖縄と北海道で文化が違う。そういった面でも日本には、非中央集権が合っている。しかも、士農工商のカースト制も300年程度続くぐらい日本の統治にはハマっているのである。

「日本にはカーストが向いている。」

カーストというと、悪いイメージがあるが、インド人にとっては必ずしも悪ではない。多くのインド人が、「カーストは幸福のひとつの形」と答える。

なぜカーストが幸福につながるのかというと、カーストがあると職業選択の自由はない反面、ある意味の安定は得られるから。

生まれたときから、どういう層の人々と結婚をするのかがわかっているし、誰と結婚するのかも大体わかっている。未来において自分の子供が自分と同じ職業を得ているだろうとわかる。それが保証されていることは、実は「自由がなく不幸」ではなく「安心かつ安らか」なのだという。

とくにインドは政権や経済政策が不安定なので、職業が人々の安定の土台になっている。自分の子供も、自分の孫も、自分のおじいちゃんと同じ仕事をしているだろうと保証されていることが、人々の安定や安心につながる。

カーストの仕事は広い意味で使われるので、かなり細かく職業が選定されている。たとえば、トイレのドアを開ける職業がある。そういう人に「でも、トイレが自動ドアになったらどうするの?」ときいてみると、「自動ドアを設置する会社に勤める」という答えが返ってくる。

同じように、トイレでティッシュを売る人も、トイレがウォッシュレットになったら、それをメンテナンスする仕事につくのだと言う。

つまり、機械ができることの外側にある仕事をつねに手掛けていて、技術失業の外側へ臨機応変に対応するのである。

ただし例外もあり、ITの領域は今までのカーストではカバーしきれなかった分野なので、カーストの抜け穴として新しい人材が参入した。これがインドでIT産業が盛り上がった理由である。

インドのカーストに当たるのは日本の士農工商だが、日本は本質的にカーストが向いている国ではないか?

大きく分類すると、士は政策決定者、官僚で、農は一般生産者、工がアーティストや専門家で、商が金融や会計を扱うビジネスパーソンである。

より詳しく見ていくと、士は政策を決定する政治家や官僚、新しいことを考える学者など、クリエイティブクラスである。江戸時代には、武士が蘭学を始めたりして、新しいジャンルをつくっていった。そうしたイノベーションを起こしたり、制度設計をしたりする人が士である。

そして、農の中心は百姓。百姓とは、単なる農民ではなく、生業が100個ある人達を指す。いわば、自営業者、マルチクリエイターである。農業をする人もいれば、木工をする人もいる。文章を書く人もいれば、祭りを取り仕切る人もいる。一般的に、医術も百姓の生業のひとつであり、医者も農に属していた。

工は専門家。つまりは職人である。専門家として刀をつくる人であるとか、家を建てる人などが典型である。多くの場合、アートもここに含まれていた。

最後に商がビジネスパーソンである。今でいう、企業のホワイトカラーや金融をあつかう人。

士農工商の中で、農と工の人は明らかにモノを生み出している。生産をしているクリエイター。それに対して、商は基本的に生産には関わらないゼロサム・ゲームを行うので、商ばかりが増えると国が成り立たない。

ですから、士農工商の中で、商が一番序列が低いというのは正しい。現代風に言うと、職人の息子のほうが、金融畑のトレーダーよりも優遇されるということ。

「百姓という多動力」

この士農工商モデルは、これからの時代にも合っている。なぜなら、AIが普及すると、商のホワイトカラーの効率化がどんどん進み、機械に置き換わっていく一方、具体的なモノを生み出す人や、百姓のようにいろいろなことができる人は食いっぱぐれない。

いつの時代も、社会の中での重要性を決めるのは、市場での希少価値である。数が少ない人達、レアな人たちほど価値が高い。誰にも作れないものを作れる人は価値が高い。それに対して、現代のホワイトカラーの仕事をできる人や機能は他にもたくさんあるので、価値が相対的に低い。

士農工商モデルを支持する理由は、日本人の幸福論を定義しやすくなるから。我々は、幸福論を定義するときに、つい物質的価値を求めてしまうが、実は、生業が保証されることこそが幸福につながる。

生きるに業と書いて、「なりわい」と読むが、生業が保証されて、それに打ち込めるだけで、人生のビジョンがほとんど決まる。それは、いつまで経っても自分探しをして、迷い続ける人が多い社会よりもよっぽど幸福ではなかろうか?

もちろん、インドのように生まれながらカーストによって職業が決まっているのではなく、職業の行き来がしやすいカーストにする必要がある。

そして、これから重要になるのは、「百姓的な」生き方である。色んな仕事をポートフォリオ・マネジメントすることで、一つの職業が無価値になっても食べていける。

コンピューターが専門性を代替することで、能力の訓練をあまりせずに、自分の才能を活かすことができるようになることで、クリエイティブな仕事をやりやすくもなる。

・アテクシの意見

日本には象徴としての天皇と、実際の権力を持った

政治家がいて、うまく権威と権力を分担して、この国を統治する歴史が続いているわけです。たまーに天皇親政みたいなことになって、権威と権力が統一されたりもしたのですが、そういった体制はあまり長くは続きませんね。

明治政府も実際のところは象徴天皇制に近いかたちだったとは思いますが、帝国憲法に統帥権のような権力の源である軍事力を天皇が持つことを規定していたりしたので、それが暗黙上は建前だったとしても、空気を読まずにその力を利用する勢力が現れるのは世の常みたいで、大日本帝国も長くは続きませんでしたね。

そういったわけで、これからの日本があらゆる危機にみまわれたとしても、権威と権力の分離は維持しておいたほうがよいと思います。

カースト制度というと、身分制度=悪といった意識が私達の中にありそうですが、人類の歴史の中で身分制度が建前上とはいえ、撤廃されたのはごく最近のことなわけです。(事実上あるところにはありますが。)

職業選択の自由があることはとても大事なことだと思いますが、逆にいえば、就きたい職業につくには、激しい競争が待っているわけです。もちろん、世襲で誰もがうらやむ職業につけることは、不公平だと思いますので、競争があることはとてもいいように思えますが、その競争は一生続くわけで、子孫にも競争を強いることにもなるわけです。

未来が完全に予測できるわけではないので、職業が決まったとしても、人生安心というわけにはいきませんが、生物として飢えないことは、最重要課題でありますので、それがある程度解決されるであろう、カースト制度は人々に安心を与えるものではあるでしょう。

とはいえ、辛い仕事につくことが、生まれる前から決められているのは、嫌でしょう。

そのへんを調整するために、補助金やら、人員を増やすやらで、いくばくかでも、労働環境がよくなるようにすべきだとは思いますし、カースト制度上決められた職業に一生つくことを義務付けるのではなく、転職するチャンスを与えることも必要だと思います。

仕事につきたければ、誰でもカースト制度上の仕事に面接やら試験を受けずに就けるようになれば、働いてみようかなという人も増え、ニートやひきこもりになりがちな人も就労しやすくなると思います。

空白期間が長いと、履歴書を提出して、面接を受けるだけでもかなりハードルが高くなるので、そのへんをスキップできるような就労の仕組みがあると、離職期間が長い人でも再就職しやすくなりそうですね。

そういうメリットもあるので、カースト制度(というと、誤解を招きやすいので、別のネーミングにしましょう。)も悪くはない選択だと思います。

「中流マスメディアの罪」

トレンディードラマのような街に住んで、家を買って、子供を塾に行かせて、私立の学校に行かせて、やがて病院で死ぬというような画一的なイメージをマスメディアが作り上げた結果、現在のような多様性のない社会が出来上がった。

昭和の時代においては、マスメディアが大衆の画一的な需要を作り出すという戦略は正しかった。マスメディアが国民全員に同じ方向を見させることによって、次は自動車が売れる、テレビが売れる、というふうに消費行動を読みやすくなったのである。

これは企業にとって都合がよかった。どこの分野に投資をすればいいかわかりやすかったし、国内で発達した技術的価値を国外に移転することもできた。これはうまい戦略だったといえる。

ほかにも、マスメディアは昔の考え方を破壊していった。結婚式についても、数百万をかけて結婚式場で挙式するという概念は昔の日本にはなかったし、米国では普通にパーティ会場を借りてやるだけである。

結婚指輪も似た話だ。給料の3ヶ月分もかけて、指輪を買わないといけない理由はないのに、それが幸福であると勘違いする人を生み出してしまった。

こうしたよくわからない洗脳を可能にしたのが、限定チャンネル数による地上波という強力なシステムである。

日本のテレビはジョージ・オーウェルの小説「1984」に出てくるテレスクリーンのように、常に消費者を監視し、うまくコントロールしている。

日本人はマスメディアに植え付けられた普通という概念にとらわれすぎである。

普通こそが一番だと思っているが、普通は多くの場合、最適解ではなく、変化の多いときには、足かせになる。

ただし、最近は広告が急速に力を失ってきている。もともと非中央集権の地方分権型という日本の成り立ちを考えると、これからは地方に目を向ける必要があるかもしれない。

「日本は超拝金主義」

もうひとつ、トレンディードラマに代表されるマスメディアがもたらした害悪がある。それは、拝金主義である。結婚相手を選ぶときに、頻繁に最初に出てくる条件は年収だが、これは拝金主義でしかない。

世間にはお金が神様だと思っている人が多すぎる。もともとの日本人は、収入を生むことと、生み出す価値と資産はそれぞれ異なったものであって、収入ばかりを考えることはなかった。

士農工商の中で、商は本質価値を生み出していない。お金からお金を生み出す職業が、一番金を稼げる(=価値がある)と考えるということ自体が間違っている。

「日本を蝕むトレンディードラマ的世界観」

不倫が叩かれているが、それだけ不倫に興味が集まるということは、みなが不倫をしたいということの裏返しなのである。

これは拝金と同じスキームである。みな自分は拝金ではないと思っているけれども、実は拝金主義にどっぷり浸かっている。それと同じように、みな正義を装って不倫している人をたたいておきながら、実は不倫したくてしょうがない。

マスメディアによってつくられたトレンディードラマのように複雑なストーリへの憧れを排除しないと、日本人はいつまでも幸せになれない。

こうした状況を変えるには文化性を持つことが大事であるが、文化を育むには50年単位の時間がかかる。アート作品は高いが、拝金主義者の人たちにはバスキアの絵がなぜ100億円もするか市場原理以上の感覚では理解できない。

長期戦として文化を育むことが大切ではあるが、今、まず必要なのは、社会に富を生み出したかどうか、ちゃんと考えることである。社会にどう貢献しているのかを考えるということ。

その視点でいくと、士農工商の順に富を生み出している。商以外は確実にモノを作っている。商は適正な金融商品が適正な価格になるお手伝いをしているだけで、それ以外はなにもない。そうした裁定取引をコンピューターがやってくれるようになったら、ますます価値がなくなる。

今の日本人、昭和の日本人は、イデオロギーなき拝金主義の群れである。拝金は汚いと思っている一方で確かに、拝金なのである。

「ものづくりへのリスペクトを回復せよ」

欧州では、アーティストや博士はとても尊敬されている。アーティストとは、人類が今まで蓄積してきた美の最大到達点をさらに更新しようとしている人たちである。博士とは、人類がそれまで蓄積してきた知の領域をほんの少しだけ外に広げる人たちである。

日本が文化の価値を取り戻すために、学ぶべきは江戸以前の文化である。日本人は本質的には文化価値や職人芸を認める伝統がある。そこに、お金への信仰という尺度はなかったのに、いつの間にか拝金主義が入ってきた。

そもそも日本は、技法のミーム(人類の文化を進化させる遺伝子以外の遺伝情報、習慣や技能、物語など)が根付いた国である。

日本では、技と美が一体化していて、技と美は一体に語られることが多い。これは欧州の視点からは遅れているように見えるが、そうではなく、ドラクエに例えると、魔法使いと剣士がいたら、それが合体した、魔法剣士がいるということ。

日本画を例にすると、日本画は芸術であると同時に、素材づくりから考え抜かないといけない。工芸的側面と芸術的な面を持っている。屏風も同じで、なぜ屏風は折れて動くのかの技術を理解していないといけない。

西洋人は壁のように動かないものに絵を書くのが普通なので、屏風に絵を書く日本人の発想を理解しづらい。掛け軸も、芸術であるとともに、巻いて収納したり、運搬したりするコミュニケーションとしての側面を持っている。

テクノロジーとメディアがセットになっているのだ。日本の芸術や職人芸は、茶道が典型であるが、技と美を一体化させて、ライフスタイルとしてまとめ直している。

それだけに、その道を究めるのにはとても長い時間がかかるのである。現代においても、職人になったり、大学の博士課程に入ったりして、自分の信じる道を極めるのは、自分の中に価値が醸成されるのでいい選択である。

だが、年収だけを見て、職人や博士になることに意味があるのか?という人があまりに多い。

生涯教育という言葉が流行っているが、拝金主導のままでは博士課程に入り直そうという人はなかなか出てこない。

こうした拝金主義的な考えを変えるために大事なのは、文化であり、美意識であり、その基盤となる教育である。教育によって、大人も変えることは可能である。特に大人に対して教育効果が大きいマスメディアを10年間かけて変えるしかない。

トレンディードラマが拝金主義者を生み出したとしたら、またトレンディードラマでその洗脳を解くしかない。

生産する人を馬鹿にするような金融崇拝の人たちを、ちゃんと、お金だけの軸で考えてはいけないと律するような社会のコンセンサスをつくりまくるしかない。

年収レンジだけでモノを考えていたら、社会の富や価値は多様性を持ち得ないし、これから先あまり増えないことを思い知らせる必要がある。

・アテクシの意見

昭和の時代は、戦前と戦後で大きく変わったと思うのですが、戦後も、バブル前とバブル後では日本人の価値観が大きく変わったような気がするんですよね。

戦後の貧しい時代から、高度経済成長時代の波に乗って、日本人は豊かになったわけです。その頃も物質的な豊かさはもちろん求めていて、お金も欲しかったとは思うのですが、まだ拝金主義が日本のすみずみまで覆いかぶさっていなかったような気がします。

やはり戦前の教育というか、慎ましい日本人の生活というか、悪く言えば、村社会的な同調圧力に基づいた嫌儲主義ともいうべき、妬み根性みたいなものがあって、富をひけらかすようなことはなかったと思います。

しかし、それは、一部の上級国民(そのころは、上流階級という呼び名でしょうか。)以外はみんな貧しかったので、お金に執着する機会があまりなかったともいえます。

しかし、高度経済成長時代の中で、日本人は豊かさを手にしました。一億総中流社会と言われるように、(実際は貧富の差があったとしても)普通に働いていれば、給料も上がっていった時代でしたし、それなりに家庭も築けて、物質的にはそこそこの豊かさでも、ある程度満足できる生活を営むことができたわけです。

しかし、バブル経済といわれる、80年代から、少し事情が変わってきました。70年代までの高度経済成長時代とバブル経済時代の違いを簡単に述べるとすれば、働けば働くほど給料が上がったのが、高度経済成長時代で、給料も上がったけど、それ以上に土地という資産の価値が上がったのが、バブル経済時代でしょう。

労働の対価として、給料をもらって、生活するというのが、20世紀以降の労働者という人たちの普遍的なライフスタイルです。

高度経済成長時代には、労働の対価である、給料が上がることで、生活も豊かになるというわかりやすい図式でした。

しかし、バブル経済時代は、土地や株といった資産をもっているだけで、労働をせずとも、生活が豊かになるという、摩訶不思議な状態が生じたわけです。

資本家と労働者の争いについては、資本主義VS共産主義の戦いのように、戦前からあったわけですが、戦後は誰もが住宅という名の土地を持てるようになり、(持てない人もたくさんいたわけですが、昔に比べれば、土地を持てる中産階級が増えたという意味ですね。)労働の対価として富を得ることで生活を成り立たせるという考えから、資産を運用してその利潤で富を得て、生活を豊かにするという考え方に徐々にシフトしてきた感じがします。

つまり、労働所得から不労所得への意識変化が起こったということでしょう。

しかし、80年代のバブルも、やがて政府により、総量規制といわれる不動産ビジネスへの資金供給を制限するという政策で終焉を迎えます。

そして、90年代から現在にまで続く、長い低成長(もしくは無成長)時代が到来するのです。いわゆる失われた10年とか20年とか言われるやつです。

その原因はいろいろあると思いますけど、(陰謀論的には、アメリカによる日本つぶしとか、一般論では、東西冷戦の終了による経済のグローバル化、とくに中国の経済発展によって、日本の製造業が海外に移転せざるをえなくなったため、労働賃金の低下を招いたとか)個人的には、貯蓄から投資への移転がうまくいかなかったことではないかと思うのです。

日本が停滞していた時代にも、金融資産は増え続けていたわけですから、海外への投資などによって、着実に一部の日本人はリッチになっていたわけです。

一方、国内への投資は滞り、日本人労働者の賃金は下がる一方でした。その結果、貧富の格差が拡大し、多くの人が貧しくなっていったのです。これは、戦前の中国大陸への投資と似ているような気がします。

戦前も、国内のお金持ちは、日本国内への投資はあまりせず、朝鮮半島や、満州といった大陸の方へ投資をたくさん行いました。なぜなら、日本国内は土地も資源も人口も大陸に比べれば少ないので、同じ金額を投資しても、あまり儲からないからです。(もちろん、大陸への進出は国が主導していたこともあり、確実に儲けるチャンスでもあったわけですが。)

戦後の日本が1億総中流といわれるほどに豊かになったのは、もちろん、冷戦や他国での戦争特需などの外部要因も大きかったわけですが、やはり国内への投資が進んだことが最大の原因だと思われます。

日本は長い間デフレに悩まされていますが、世界もまた同じようにデフレの罠にハマっています。これは、新興国にも、ある程度、道路や建物などのインフラが行き渡ったせいだと思われます。

まだまだ豊かさという点において、新興国は先進国に及びませんが、半世紀前よりは、かなりインフラ投資も進んだはずです。そうなると、大きな金額が動くビジネスがだんだんと少なくなっていき、経済も停滞していくことになります。

つまり需要が減れば、それだけむりに供給しようとしても、限界がくるということです。

世界中にある程度の豊かさが行き渡った時代において、既存の豊かさ以外の豊かさを生み出す産業を創り出すことができる国でなければ、そこに住んでいる国民が豊かになることはできません。

豊かな未来を創ることができるのか、どうかは私達自身にかかっているといっても過言ではないでしょう。

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