退屈の先にあるもの Osho (「JOY」より)
退屈は、マインドが覚醒に近づいたときに起きる。
退屈するということは、人生の生き方に関するむなしさや、無意味さについて、大いなる理解が生じつつある最初の兆しだ。
退屈には2つのやり方で対応することができる。
一つは人々が普通することである。
そこから逃げる、それを避ける、真正面から見ようとしない。
あなたの心を占め、強迫的に夢中になれるものに逃げ込む。
それはあなたを生の現実から引き離し、あなたは二度と退屈が湧きあがるのを見ることはない。
それこそが人々がアルコールや薬物を発明した理由だ。
しかし、あなたは本当には逃げられず、しばらくの間、それを避けることができるだけだ。
あなたは、セックスに逃げ込むこともでき、大食いしたり、音楽に逃げたりもできる。
あなたが逃げ込めるものは、無数にある。
しかし、何度も何度も退屈はおそってくる。
それは避けることができない。人間の成長の一部だ。それに直面しなければならないのだ。
もう一つの反応は正面から取り組み、そのことについて瞑想し、それと一緒にいて、それになりきることだ。
ブッダが菩提樹の下で行ったことはそれだった。
瞑想とは正確には何だろうか?
退屈に正面から向かうことが瞑想だ。
瞑想者は何をし続けているのだろうか?
黙って座り、自分のへそを見つめる、あるいは呼吸を観察する、彼はこうしたことを楽しんでいると思うかね?
彼はまったく退屈している!
禅のマスターが棒切れを持って歩き回っているのはそのためだ、なぜならば、こうした退屈した人々は居眠りをしてしまうからだ。
他の逃げ道はない。
彼らは自分の意思で、禅の訓練の一部になったのだ。彼らは逃げられない。
しかし、いつも一つ逃げ道がある。
眠ることができ、そしてあなたはすべてを忘れる。だから、瞑想中に人は眠くなるのだ。
瞑想の努力はこれだけだ。
退屈しなさい、でもそこから逃げるなということだ。
眠ってしまったら、逃げたことになる。
注意を怠るな、それを観察せよ。
もしそれがそこにあれば、それはそこにある。
それをよく見なければいけない、その中心まで見るのだ。
もし、あなたが逃げずに退屈を見つめ続ければ、爆発が起こる。
ある日、退屈の中を深く見ていると、突然に、あなたは自分自身の無の中を刺し貫く。
退屈を歓迎し、自分から進んで退屈の中に入り、退屈がやってくるのを待つのではなく、退屈を探求するのだ。
禅寺では、毎日、同じ動作が何回も何回も続く。一日中、決まり切った日程だ。すべてが退屈を助長する。
もし、あなたが観察し、観察し続けると、退屈はどんどん大きくなり、どんどん強烈になり、そしてピークに達する。
永久に続くものはない。車輪が向きを変える時がやってくる。
もしあなたが極限まで行くと、最高地点まで行くと、そのとき、変化、変容、覚醒、悟り、何と呼んでもいいが、それが起きる。
ある日、突然、退屈があまりにも大きくなる。あなたは息が詰まりそうになる。それによってあなたはほとんど死にそうになる。あなたはそれに圧倒される。
逃れる方法がないように思える。
退屈の強烈さと大きさが頂点に達したとき、車輪が反転する。
突然、退屈が消える、そして、そこには悟りと三昧が現れる。あなたは無の状態に入る。
そのとき、もう退屈はどこにもない。あなたは生の究極の無を見たのだ。あなたが消えたのだ、誰が退屈するだろうか? 何に退屈するだろうか? あなたはもう存在しない。あなたは消滅している。
偉大なスピリチュアルな現象だ。だから、野生の牛は退屈しないのだ。彼らは完全に幸せで楽しんでいる。人間だけが退屈する。
人間の中でも、とても才能があり、知的な人間だけが退屈する。
馬鹿な人々は退屈しない。彼らは完全に幸せで、仕事をしたり、子供を育てたり、食べたり、映画に行ったり、あれやこれやに参加したりしている。
彼らは退屈なんかしていない。彼らは最低のタイプだ。
ブッダは完全に退屈していた。
女にも、酒にも、富にも、王国にもすべてに退屈していた。
彼はあまりにも世間に飽きてしまったので、世を捨てたのだ。
もし、あなたがインテリならば、世間は退屈だ。
もし、あなたが馬鹿であれば、そのまま続けられる。その場合、世間は遊園地だ。
あなたはくだらないことに興味を持ち、繰り返し続け、その繰り返しが見えるほど意識的でもない。自分が昨日はこれをしていた、そして今日もまた同じことをしている、明日もまた同じことをすると思っているのを、あなたは分からないのだ。あなたは本当に頭が悪いに違いない。
知性はどうやって退屈を避けることができるだろうか? それは不可能だ。
知性とは物事をありのままに見ることを意味している。
ブッダは退屈して世間から去った。
そして彼は森の中に6年間座って何をしていたのだろうか?
彼はもっと、もっと退屈していった。
森の中に座って、あなたは何ができる?
自分の息を観察しなさい、自分のおへそを見なさい、朝から晩まで、年の初めから終わりまで。
彼は自分の退屈を究極のピークまで作り上げた。すると、ある夜、それは消えた。ひとりでに消えたのだった。
もし、あなたがピークに達すると、折り返しがやってくる。必ずやってくる!
光があなたの存在に入り込む。あなたは消え、光だけがとどまる。
あなたは喜びでいっぱいになる。
あなたはいない、しかし、理由などないのに歓びでいっぱいだ。
普通の人は何か理由があって、楽しむものだ。
新しい女性と恋に落ちて、彼は楽しくなる。
彼の歓びは瞬間的なものだ。明日になれば、この女性に飽きてしまって、他の女性を捜し始めるだろう。
普通の男は新しい車を買ったと言って喜ぶ。明日になれば、彼は他の車を探し始めなければならないだろう。
それは次から次へと続く。彼は決してものの本質を見ない。いつも最後には退屈するのが分からないのだ。
どんな行動も退屈をもたらす。頭の良い人はそれが分かっている。
だから人は退屈について瞑想しなければならない。
退屈から逃れる道はない。それならば退屈の中に入ってゆきなさい。それがどこに導いてくれるのか見なさい。
そして、あなたが退屈の中に入り込み続けると、それが覚醒へと導いてゆく。