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沢木興道の言葉、思い出した

屁ひとつだって、人と貸し借りできんやないか。人人みな「自己」を生きねばならない。お前とわしとどちらが器量がいいか悪いかそんなこと比べてみんかてええ。

目が、オレはカシコィのだげれど、位が低いとも思わず、眉はオレは役なしだげれど、位が高いと思わぬ。仏法の生活とは、この不知の活動である。
山だからというて高いと思わず、海だとて広いとも深いとも思わず、一切合財、不知の活動じゃ。
野鳥自啼花自笑、不干岩下坐禅人・野鳥は坐禅している人に、ひとついい声を聞かしてやろうと思って鳴くわけでもなく、花も人に美しく思ってもらおうと思って咲くのではない。坐禅人も、悟りをひらくために坐禅しているのではない。
みなただ自分が自分を自分しているのである。

http://antaiji.org/archives/jap/sawaki-taninnnome.shtml

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東洋、特に日本では――禅の存在ゆえに――少なくとも千年の間、全く違った治療が行われていた。禅の修行場、それは病院の中にあるのではない。病人のための施設ではないが、もし村に禅寺があったら、そこは唯一の場所だ。誰か気の狂った者や神経を病んだ者がいたら、どこに行くだろう。東洋では、人々は神経を病んだものを師のところに連れて行く。師が普通の人々を扱うことができるのなら、神経を病んだ者を扱うのは当然ではないか。程度の違いだけなのだから。
その治療は実に信じ難い!その治療とは――何も治療しないのだ。
患者は、寺の裏の片隅にある独居の小部屋をあてがわれる。神経を病んだその男はそこに住まねばならない。彼には食べ物と必要な設備が与えられる。それだけだ。彼は、自分自身とともに生きねばならない。三週間のうちに、わずか三週間で、何の治療もなしに、神経症は消え去る。
今、西洋の多くの精神科医たちがこれを研究して奇跡であるとしている。神経病者に、西洋でされているように注意を払うと、その患者は二度と正常に戻ることはない。なぜなら、以前は誰も、彼にこれ程注意を払わなかったからだ。彼は二度と以前の彼のようにはならない。彼を気にかける者が誰もいなくなってしまうからだ。今や、偉い精神分析家たちが悩んでいる――偉い医者、名声のある人々、高名な治療家たち、彼らは患者と話をする。患者は、ソファーに横になって休み、高名な治療家はただ患者の後ろに座っている。患者が言うことにはすべて、一語一語注意深く耳が傾けられる。何という注意の払われようだ!神経病は投資になった。人々は他人から注目されることこそを、必要としているのだから。

神経症の者がいる。エゴは神経症だ。そして、エゴは注目されたがる。注目されれば、エゴは気分が良い。多くの人々が殺人を犯すのは、ただ新聞から注目されたいがためだ。自分が新聞の見出しになるには、殺人を犯したときだけだ。彼らは突然に、非常に重要な人間になる。顔写真が載り、名前が公表され、自分にまつわる話が紹介される。彼らは突然に、名もない者から有名人になる。
神経症は、注目に対する深い渇望だ。神経症に注意を払えば、栄養を与えれば――精神分析が完全な失敗であるのはそのためだ。
禅寺では、人を三週間以内で治療する。フロイト派の精神分析では、三十年かかっても治療できない。なぜなら、精神分析には肝心な点が抜けているからだ。禅寺では、神経症者に何の注意も払わない。そこには、彼が特別に重要な人間であると思うものは誰もいない。彼はただひとりにしておかれる。それが唯一の治療だ。彼は自分で自分のことを片付けねばならない。誰も気にしてはくれない。三週間で、彼は完全に正常に戻る。
ひとりで暮らすことには治療効果がある。それは、癒しの力だ。自分が混乱していると思ったときには、そこでそれを解決しようとしてはならない。少なくとも数日間か、三週間ほど社会から離れ、静寂を保つのだ。自分自身を見つめ、自分自身を感じる。自分自身と共にいる。そうすれば、圧倒的な癒しの力を感じるだろう。それゆえ東洋では、多くの人々が山へ、森へ、どこかひとりになる場所、誰にも邪魔されることのない場所へ居を移してきた。いるのは自分だけだ。そのとき、人は自分を直接に感じることができる。そして、内側で何が起こっているのかを知ることができる。

見せようとする欲望は、無知なマインドの欲望だ。なぜ人に見せようとするのか。なぜ人に知って欲しいと思うのか。その原因は何か。なぜそれを、人に披露することを人生の一大事にするのか。自分のことを非常に意味ある存在だと、非常に重要でずっと格が上だというふうに人は見るべきだと、なぜそのように人に考えさせようとするのか。それはあなたに自己がないからだ。エゴ、すなわち自己の代用品しかないからだ。
【OSHO】

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クリスマスにぴったり?の詩を読んだので。原爆を実際体験していると危機感が全然違う。人類の愚かさをみて破滅を確信しているのに、家なき子のクリスマスを思う優しさに心を打たれる。

家なき子のクリスマス

主よ、あわれみ給へ 家なき子のクリスマスを
今 家のない子はもはや明日も家はないでせう そして
今 家のある子らも明日は家なき子となるでせう
あはれな愚かなわれらは身と自らを破滅に導き
破滅の一歩手前で立ちどまることを知りません
明日 ふたたび火は空より降りそそぎ
明日 ふたたび人は灼かれて死ぬでせう
いづこの国も いづこの都市も ことごとく滅びるまで
悲惨はつづき繰り返すでせう
あはれみ給え あはれみ給え 破滅近き日の
その兆に満ち満てるクリスマスの夜のおもひを

原民喜「魔のひととき」より

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遥か昔から存在した無数の原子達は、その圧倒的に高度で膨大で複雑なそのシステムは、全て、今のあなたの「物語」のためにあるのだから。そして今のあなたを形作っている原子達は、あなたが死んだ後も残り、またいつかの誰かの「物語」のためにあるのだから。

どのような醜い過去も悲しい過去も、全て何かの役に立つことがあると。惨めさも後悔も価値があるのだと。種類はどうあれそれは「経験」であるのだから、役に立たないわけがないのだと。

「つらい記憶が、あったとして…。でも、記憶は、他の記憶が増えれば、薄れていくので。僕との思い出を増やして、あなたのつらい記憶を消してしまえばいい」

中村文則「教団X」

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「教団X」は僕も文庫になったタイミングで読みました。もうほとんど思い出せないけれど… こんなに強い肯定のメッセージも書かれてたんですね。

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はい、そうなんです:slight_smile:
教団Xは物凄い長い小説ですから、何が書いてあったか忘れちゃいますよね。
でもあの長い小説の中にいくつも肯定的な言葉が出てきて、生きる力を貰いました。
最後のほうにも
「私達は、世界を肯定しましょう。世界の全てでなくてもいい。世界の何かは肯定しましょう。世界の中にある何かは、自分のことに対して優しいと。」
という文があって、読み終わると自分の生き方を少し肯定できるような気持ちになって、心が軽くなりました:balloon:

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「しあわせ」てなんですか?
ひとそれぞれちがいます
どんな小さなことでも
自分がこれでいいと思える時が
しあわせです

須永博士 「しあわせ」

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「人はどんなに力を持っていても、またどんなに賢くても、他の人間がいなければ生き残っていけません。だから、自分の願望を満たし、目標を達成する最善の方法は他人を助け、より多くの友人を作ることなのです。では、どうしたら友達を増やせるでしょう?」
自分に問いかけるかのようにダライ・ラマが言った。

「信頼することです。信頼感を育むのは簡単です。相手の幸福を心から願っていることを示せばいいのです。そうすれば信頼感が生まれます。信頼なくして友情はありえません。」

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仏教徒の僧侶兼学者であるシャンティ・デーヴァは、苦しみの功徳について語っている。苦悩が引き起こす精神的打撃ゆえに、私たちの傲慢さは消え失せる。苦しみはまた、苦しんでいる他のすべての人間に対する憐れみの気持ちを生じさせる。私たちは、苦しみを経験するゆえに、他者を苦しめる行動を控える。

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𝘠𝘦𝘴𝘵𝘦𝘳𝘥𝘢𝘺 𝘪𝘴 𝘢 𝘩𝘪𝘴𝘵𝘰𝘳𝘺, 𝘛𝘰𝘮𝘰𝘳𝘳𝘰𝘸 𝘪𝘴 𝘢 𝘮𝘺𝘴𝘵𝘦𝘳𝘺, 𝘛𝘰𝘥𝘢𝘺 𝘪𝘴 𝘢 𝘨𝘪𝘧𝘵. 𝘛𝘩𝘢𝘵’𝘴 𝘸𝘩𝘺 𝘪𝘵 𝘪𝘴 𝘤𝘢𝘭𝘭𝘦𝘥 𝘱𝘳𝘦𝘴𝘦𝘯𝘵.
アリス・モース・アール著 「Sun Dials and Roses of Yesterday: Garden Delights.」より

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「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。

だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。

変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。」

(マチネの終わりに 平野啓一郎)

私はいつも過去の出来事全て消してしまいたいと思ってるんですが、
過去も変えることができるというこの考えに触れて気持ちが楽になりました。
分人主義の考えも平野啓一郎さん発だったんですね。
どちらの考えも私の気持ちを楽にしてくれました。

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結城はサインを求められるとき、

"Enjoy!"

と書くことが多い。文字通り「楽しめ」ということでもあるし「享受せよ」ということでもある。もちろん、適当に書いているわけではなく、深い意味がある。その根源には"joy"(喜び)というものがある。

Enjoyの語源って en ~の中に~ Joy 喜び。なんですね。幸せを目指すより喜びの中に浸かっていたい。えんじょい~ん。

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退屈の先にあるもの Osho (「JOY」より)

退屈は、マインドが覚醒に近づいたときに起きる。
退屈するということは、人生の生き方に関するむなしさや、無意味さについて、大いなる理解が生じつつある最初の兆しだ。
退屈には2つのやり方で対応することができる。

一つは人々が普通することである。
そこから逃げる、それを避ける、真正面から見ようとしない。
あなたの心を占め、強迫的に夢中になれるものに逃げ込む。
それはあなたを生の現実から引き離し、あなたは二度と退屈が湧きあがるのを見ることはない。
それこそが人々がアルコールや薬物を発明した理由だ。

しかし、あなたは本当には逃げられず、しばらくの間、それを避けることができるだけだ。
あなたは、セックスに逃げ込むこともでき、大食いしたり、音楽に逃げたりもできる。
あなたが逃げ込めるものは、無数にある。
しかし、何度も何度も退屈はおそってくる。
それは避けることができない。人間の成長の一部だ。それに直面しなければならないのだ。

もう一つの反応は正面から取り組み、そのことについて瞑想し、それと一緒にいて、それになりきることだ。
ブッダが菩提樹の下で行ったことはそれだった。
瞑想とは正確には何だろうか?
退屈に正面から向かうことが瞑想だ。

瞑想者は何をし続けているのだろうか?
黙って座り、自分のへそを見つめる、あるいは呼吸を観察する、彼はこうしたことを楽しんでいると思うかね?
彼はまったく退屈している!
禅のマスターが棒切れを持って歩き回っているのはそのためだ、なぜならば、こうした退屈した人々は居眠りをしてしまうからだ。
他の逃げ道はない。
彼らは自分の意思で、禅の訓練の一部になったのだ。彼らは逃げられない。

しかし、いつも一つ逃げ道がある。
眠ることができ、そしてあなたはすべてを忘れる。だから、瞑想中に人は眠くなるのだ。
瞑想の努力はこれだけだ。
退屈しなさい、でもそこから逃げるなということだ。
眠ってしまったら、逃げたことになる。
注意を怠るな、それを観察せよ。
もしそれがそこにあれば、それはそこにある。
それをよく見なければいけない、その中心まで見るのだ。

もし、あなたが逃げずに退屈を見つめ続ければ、爆発が起こる。
ある日、退屈の中を深く見ていると、突然に、あなたは自分自身の無の中を刺し貫く。
退屈を歓迎し、自分から進んで退屈の中に入り、退屈がやってくるのを待つのではなく、退屈を探求するのだ。
禅寺では、毎日、同じ動作が何回も何回も続く。一日中、決まり切った日程だ。すべてが退屈を助長する。
もし、あなたが観察し、観察し続けると、退屈はどんどん大きくなり、どんどん強烈になり、そしてピークに達する。
永久に続くものはない。車輪が向きを変える時がやってくる。
もしあなたが極限まで行くと、最高地点まで行くと、そのとき、変化、変容、覚醒、悟り、何と呼んでもいいが、それが起きる。

ある日、突然、退屈があまりにも大きくなる。あなたは息が詰まりそうになる。それによってあなたはほとんど死にそうになる。あなたはそれに圧倒される。
逃れる方法がないように思える。
退屈の強烈さと大きさが頂点に達したとき、車輪が反転する。
突然、退屈が消える、そして、そこには悟りと三昧が現れる。あなたは無の状態に入る。
そのとき、もう退屈はどこにもない。あなたは生の究極の無を見たのだ。あなたが消えたのだ、誰が退屈するだろうか? 何に退屈するだろうか? あなたはもう存在しない。あなたは消滅している。
偉大なスピリチュアルな現象だ。だから、野生の牛は退屈しないのだ。彼らは完全に幸せで楽しんでいる。人間だけが退屈する。

人間の中でも、とても才能があり、知的な人間だけが退屈する。
馬鹿な人々は退屈しない。彼らは完全に幸せで、仕事をしたり、子供を育てたり、食べたり、映画に行ったり、あれやこれやに参加したりしている。
彼らは退屈なんかしていない。彼らは最低のタイプだ。

ブッダは完全に退屈していた。
女にも、酒にも、富にも、王国にもすべてに退屈していた。
彼はあまりにも世間に飽きてしまったので、世を捨てたのだ。

もし、あなたがインテリならば、世間は退屈だ。
もし、あなたが馬鹿であれば、そのまま続けられる。その場合、世間は遊園地だ。
あなたはくだらないことに興味を持ち、繰り返し続け、その繰り返しが見えるほど意識的でもない。自分が昨日はこれをしていた、そして今日もまた同じことをしている、明日もまた同じことをすると思っているのを、あなたは分からないのだ。あなたは本当に頭が悪いに違いない。
知性はどうやって退屈を避けることができるだろうか? それは不可能だ。
知性とは物事をありのままに見ることを意味している。

ブッダは退屈して世間から去った。
そして彼は森の中に6年間座って何をしていたのだろうか?
彼はもっと、もっと退屈していった。
森の中に座って、あなたは何ができる?
自分の息を観察しなさい、自分のおへそを見なさい、朝から晩まで、年の初めから終わりまで。
彼は自分の退屈を究極のピークまで作り上げた。すると、ある夜、それは消えた。ひとりでに消えたのだった。
もし、あなたがピークに達すると、折り返しがやってくる。必ずやってくる!
光があなたの存在に入り込む。あなたは消え、光だけがとどまる。
あなたは喜びでいっぱいになる。
あなたはいない、しかし、理由などないのに歓びでいっぱいだ。

普通の人は何か理由があって、楽しむものだ。
新しい女性と恋に落ちて、彼は楽しくなる。
彼の歓びは瞬間的なものだ。明日になれば、この女性に飽きてしまって、他の女性を捜し始めるだろう。
普通の男は新しい車を買ったと言って喜ぶ。明日になれば、彼は他の車を探し始めなければならないだろう。
それは次から次へと続く。彼は決してものの本質を見ない。いつも最後には退屈するのが分からないのだ。

どんな行動も退屈をもたらす。頭の良い人はそれが分かっている。
だから人は退屈について瞑想しなければならない。
退屈から逃れる道はない。それならば退屈の中に入ってゆきなさい。それがどこに導いてくれるのか見なさい。
そして、あなたが退屈の中に入り込み続けると、それが覚醒へと導いてゆく。

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苦しみの根源は、自分が永遠に変わらぬ、独立し仕切られた自己を持っていると誤って信じこんでいることにある。これを了解すれば、生も死もなく、生産も破壊もなく、一も多もなく、内も外もなく、大も小もなく、不浄も浄も存在しないとわかるだろう。これらすべての観念は、知性によって捏造された誤った弁別だ。万象の空なる本質に親しんでいけば、すべての心の障碍物を超えて、苦しみの悪循環から解放されるだろう。

ティク・ナット・ハン「小説ブッダ いにしえの道、白い雲」P82より

いま、少しはまりたいセンテンスは
「今日感謝できる事を3つ書く」です。

:snail:「みんな、ありがとう。いいアイデア思いついた☆」

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陰口を言われても、嫌われても、あなたが気にすることはない。「相手があなたをどう感じるか」は、相手の課題なのだから。 by アルフレッド・アドラー

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奇跡は毎日起きています。
今日もまた新しい日を迎えることができた。
実はこれも奇跡なのです。
一晩中、見えない力により守られて
心臓が止まることも
呼吸ができなくなることもなく
朝、静かに目が覚めて
当たり前のように起き上がる。
起き上がれたこと
手足が動くこと
今日の予定がわかること
何もかも本当は有難い奇跡です。
普段どおり過ごしてる日々
時々思い出してください。
あなたは守られています。

あなたは守られている 石川真理子

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信頼は98%。残りの2%は相手が間違っていた時の許しのために取っておく。

「置かれた場所で咲きなさい」渡辺和子

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テーマ『トラウマの克服と人の回復性』

文章ではありませんが、
素敵な動画だと思いました。

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逆再生をみてるような面白い動画ですね。
回復するには脱力して(信じて?)落ちなければならないし、自然の力で戻らなくなってしまったら、何度も落ちながら戻るときに自力も合わせてゆくことで、元に戻れるんだ!と最後感動しました。

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