心を解き放てるようになるための部屋

使い道は自由でお互いの発言はお互いが縛られるものではなく、罪悪感を持たなくても良い場所。
気軽に話し合える場所。
気軽に知恵を出し合える場所。
知識の間違いは後で訂正出来る。間違えてもだれもそれをとがめない。
気軽にあなたの持っている何かで良い。
それが人の知恵だとここでは定義する。

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そこに枷も鎖もないただお互いに武装を解き知恵を投げ込み、それを良しとする場所。
コミュニケーションが成立していなくてもそれをとがめることのない部屋。
ルールは人を思いやり、慈しむことだけ。
好きな時に好きな情報を不特定多数の人間に発信したいと言うときにも使えます。
我々は武装を解き縛りを持たず、知恵を出し合う。
それがお互いのためになり、社会貢献である。
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争いをさけ自由に要られる場所、それがこの寄り合い所です。

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なぜ私は水にこだわるのか、それは宮本武蔵が水の心得を説き、また中国の思想家、老子も水の強さを説いたからである。

私は昔、引きこもることを表現しようがなくて、苦しんでボロボロになった時ある答えが突然自分の中に生まれました。

引きこもりは忍者なんだ。

だれにも生きてることを悟られず、隠れて生きる。
自分の使命のために。

私達は隠れるあまり お互いに見つけ合うこともできない。
そして背負っている物(使命と状況)は一人一人違う。
ただ忍者(ひきこもり)というカテゴリーだけが一致している個別の集団なんだ。

そんな考えにしがみついて、どこかに同じ忍者のように
忍び耐えて生きる人達がいると信じて、孤独を和らげ、お互いに信じて背を向けながら生きる。
それが引きこもりなんだと思って生きてきました。

普通の人(武士)達とは僕らは違う。
忍者だからこうやって隠れて生きる事を僕らはやってかなきゃいけない。
そう思うようになると少し、楽になりました。
忍者は隠れるものだ、だから俺は隠れている。
そういうマインドが僕を支えました。
これは答えではありません。
これからも移り変わっていくでしょう。
でも一つの考え方だと思うんです。
どこかで私と同じ忍者が孤独に耐え、社会に耐え、戦っている。
そう思うと僕は今日も耐えられる、与えられた運命と共に生きていける気がするんです。

長くなりました。呼んでくれた人に幸せが訪れる事を祈ります。

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私たちは、ある条件さえ整えば間違いなく幸せになれると思っています。こうした考えが真の幸福の妨げになるとは気づきもしません。幸福という概念を手放せれば、すぐにほんとうの幸福が心に生まれます。

何かの資格や、特定の職業や、ある相手との結婚などが実現しなければ幸せになれない、そう考える若者たちにも出会ってきました。私たちは自分で幸福の条件をつくり出し、それに縛られているのです。

自由な人にはいつでも幸福が訪れます。これが幸福だというひとつの概念だけにこだわる意味があるでしょうか? そうすれば幸福は限定されてしまいます。その概念を手放せば、あらゆる方向から幸福はやってくるのです。

ティク・ナット・ハン 島田啓介 訳「リトリート ブッダの瞑想の実践」P182より

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寝不足はアルコールを摂取してるのと同じくらい判断力が鈍るらしい。
一日の後半の場合僕はだいたい行動がおかしくなる。
でも基本的には寝るスイッチが入る瞬間まで寝たくても眠れない事が多い。
眠る為に精神と肉体を限界まで使おうとするので、結局疲れる。
一時期 SLEEPという本を買おうと思っていた。
睡眠障害ほど重くないと思うが、メンタルをやられると3大欲求でさえも少しおかしくなる。
(寝たところで夢を見たりだとか)
困ったものです。

なんかやる気ばっかりが空回りして、身体の調子が悪い。
こんな時、どうするべきなんだろう。
何かせずにはいられない・・・
けど 身体も心もついてこない。

部屋名をより明確な物にしました。
基本的に自由になる為にはどうしたらいいかを私はなやんだりしてます。
そんな話がこの板のテーマになってくると思います。

自由を求めれば求めるほど窮屈になってしまう。
境界線は地面に引いた線のようにいとも簡単に越えられるような気がする。
それでもその境界線は心に傷となって刻まれている。
がんじがらめとはよく言った物だ・・・

一つ思った。
強く攻撃的なしゃべり口調の人を見ていると、その奥に恐怖を感じる事がある。
これは自分がその人に対して怒りを抱いたりしていて、自分の恐怖が相手に映り跳ね返ってきてる可能性もある。
しかし優しく穏やかな人にはその奥に恐怖を感じることはない。
しゃべる人自身が恐れを持って言葉を発せば緊張して堅くなると思う。
しかし穏やかで優しい話し方をする人は、刃物のような鋭さは感じないものの、
宇宙のような果てのない無限を感じる。
強い物言いの人の方がもろく弱く見えてしまう。
結局は自分の好みではあるが、穏やかな強さと鋼のような強さ。
心ってものがいろんな作用をして行動に表れる。
個人が背負う物が自分の心に作用し、それがさらに行動に作用する。
生き方の探求は終わらない。

少し前にすべては無なのだから何がどうでも良い。
と思ったことがある。
これは他者から完全に解離した唯一
心の部屋にはだれもいない、自分だけ、ただ虚構があって、そこに現実の人や物や言葉を招き入れ、
自分を作っている。
だとしたら、そもそもあった自分自身は何者なんだろうか。
そこに答えはないもののそう考えると何もかもが無に思えてしまった。

心がこの無に帰すと果てしない自由が訪れた。
ような気がした。

自分でも何言っているか良くわからないが、この無という自分の概念は、
自由に生きる上ではなにか重要な気がする。

そこには他者も経緯もない、完全な一人の自分で生命単位の存在。

つまりはすべてがどうでもよくなり、直感で動ける。

この概念は自分の中に存在しているんだけど、それが何なのか、いつ発動するのかはまだよくわからない。
でもそれはなぜか心地よかった気がする・・・

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書き込みを読んで、内山興正という禅の老師が書いた、第一図や第四図を思い浮かべました。といってもなんのこっちゃでしょうが、そういう経験があるなら、より興味深く読める気がします。

https://www.google.com/search?q=内山興正+図&tbm=isch&source=iu&ictx=1&fir=dT3pzJIuijCF7M%3A%2ChkT8ibqYMDXxYM%2C_&vet=1&usg=AI4_-kT7BJaDcyVBoMLm2ctSXWOQ3-HwHQ&sa=X&ved=2ahUKEwiP-dr8xtvhAhWgyosBHQkNDsoQ9QEwAHoECAkQBA#imgrc=_&vet=1

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ひきこもり生活は本来は自由な時間が、働いている人より遥かに多いのに、なぜ働いている人より不自由になってしまうのか?

と考えてみると、暇や退屈を感じる余裕がないほどに、自責の念や不安や鬱や葛藤で、心の中が戦争状態になっているからなんですよね。。

もし、ひきこもり生活の良し悪し、働いていないことの良し悪し、というこの二つの大きな価値判断だけでも止める、もしくは保留することができたら、かなり楽になるのだろうけど、自我の生き方の基本が、良し悪しを決めて、良いことには近づきたいと思い、悪いことからは逃げたいと思う戦略なので、それがうまくいかないとドツボにはまりがちなんですよね。。

自我と本来の自己が限りなく近づいていけば、かなり気楽に生きれると思うけど、まるで正反対のような性質を持ってるようなので、そんなことは可能なのか?
いや、可能か不可能かが重要というよりは、自我が自己へと向かう生き方ができれば、それだけでもいいのかもしれない。

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頭の展開する世界・・・
納得がいくような気もします。
僕は脳って仮想空間を作れる能力があると思っていて、
妄想や思考、空想はその仮想空間で再現された世界って考えてるんです。

この図は興味深いです・・・
情報ありがとうございます。

僕は過去にマンガのバガボンドを読んで、宮本武蔵に興味を持って、知識も浅はかで、深く洞察しようとか考えて、最近ではマンガ老荘の思想などを読んでいました。

そこら辺から、自由を考えだして、その結果 さっきの投稿のような考えに迷い込みました。

禅も少し気になっていたのでありがたかったです。

コンパスがあれば楽かもしれない、だけどコンパスを持たない生き方もまた自由で素晴らしい。
というか僕の中の自由の概念は無に帰すって事だと思う。

どうせ最後は同じなのだから、今を見つめてそれがだめに思えてもだからといってそれが大変恥ずかしい事でもないし、間違ってもいない。
正解も間違いも人間にはわからない。
あるのは生と死だけで、そのあいだで何をしてどう生きるかは自由なのだからそれって無も同じではないか?っと超理論を展開してみる。笑

時がたって行く限り、その進行は止められないしスピードも一定だと思う。(体感で変わるだけ)
だから深く考えず、自分が深く考える価値のあると思ったことだけ考えて、後は成り行きに任せ、世論や社会を気にせず、焦りを取り除き、自分のしたいことを深く楽しむ。

人を慈しめば、ルールを犯すこともめったにない。
特に日本においては何か無理やりしなければならないルールは無い。
めったに警察に捕まる事もない。(知らないうちにって事もなくは無いが)
時の早さは変えられないのだから、時はほっといて、自分の歩幅で進めばいい。
(それが自分の限界(歩幅)だとおもうから)

周りの人はとやかく言うとは思うが、その人はうるさいハエのような物で、その人も必死に生きていると認めてやれば、ハエから人間になり友になれるかもしれない。

自分の中にはだれも入りこめない事が事実であると今は思う。
たとえばフラッシュバックなんかはその人が実際に自分の中に住んでいるのではなくて自分で自分の中に再現してしまう現象と僕は考える。

頭の中(心ともいえる)にはだれも入れないけど、だからと言って人は一人だっていうのも簡単に言い切りすぎな気もする。そう簡単に人は一人だとも言えない。
心の中には自分だけしかいないかもしれないけど、現実世界には自分とは違う人間が実際にそこにいて、そしてその人もまた心を持ってる。

その心は物理的には繋がれないけど、なんか繋がってるように思えることがある。
不思議としか言いようがない。

自由について考えるとやっぱり人間関係ってものが出てくるのだろうか
僕にもよくわからない。

またまた思考ノートになってしまった。

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めちゃ長い事に・・・

突然暖かくなったせいで、体調が崩れる。
メンタル面もダメージがある。
自律神経も多少乱れたかもしれない。
軽い運動することで調整は出来るらしいが、やる気が起きない。
愚痴みたいになったが、実際 こうした些細な変化にも影響を受けてしまうのがつらい所だ。
多分そういった人は結構いるのではないだろうか。
でも昔より、それに耐えられるようになった気もする。
僕は自信をつけるために毎日「私は良い人なんだ」と唱えるようにしている。
部屋のホワイトボードにも描いてある。
これは結構自信がついてくる。
人の批判はうるさいハエのような物、と思えるようになったのはこのおかげかもしれない。

また完全な幸せなどない、苦楽を共に生きていくというのが現実的で、健康的な事だとも思えてきた。

つまりつらい時も楽しい時もすべて生きると言う事なんだからそれはポジティブな事で、人生といううサーフィンを楽しんでるような気もしてくる。

虚勢に聞こえるかもしれない、それも真実だろう。
でも大事なのは自分自身の舵は自分が握っていて自由なのだから、誰にどう思われるかよりも自分がどう生きたいかと言うことに耳を傾けられているか、という事だと思う。

そう思ったのだった。

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なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。
そうすれば、その通りになるであろう。
『新約聖書』-マルコによる福音書(第11章24節

自分もここのところ、通院日に合わせて生活リズムを急激に変えたせいか、眠れなくなったり寝てばかりだったり、調子を崩しています。

寝れなくて、ひきこもり回復の本とか、仏教系の本をいろいろ一気に読んでしまったのも、あまり良くなったのかもしれない。

しかし永沢哲という人のチベット仏教の話がおもしろかった。
チベット仏教というと、オウム真理教が一部を修行に取り入れたりしてたイメージがあったり、密教ということで読んでも結局肝心なところは口伝なんでしょう?とあまり触れてこなかったけど、御籠り修行とか、ゾクチェンの教えを究めた超人の奇跡話や、その人のあまりの奇人っぷり。ずっと眠り続けながら瞑想してるとか、おもしろいエピソードがあった。

過眠症で眠ってばかりなので、せめて夢の中で修行したく「夢の修行ーチベット密教の叡智」が読みたいと思ったけど、プレミア価格になってるー。。

と引用文と関係ないことを長々と書いてしまったけど、引用文は書き込みを読んでて、ふと思い出したので、自分のアファメーション用にしようかと思いました。

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非常に撃たれ弱く、ガラスのようなプライドで、自分の非力さにはいつも打ちひしがれる思いだ。
もっと自分自身を自由に生かして、すぐに現実の事象以上につらくならないようにしたい。
気にしない、関係ない、自由。
ここが僕の目指す処になりそうだ。

目標は内側から溢れるものであって、人の評価や自己顕示欲のためには動きたくない。
難しい・・・
人の評価や自己顕示欲を超えられない・・・

まだ道は長そうだ。

自然体に、身体を任せて、言葉に頼らない。
理屈で堅くならない。
柔く形を変えて、水のように。

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言葉にあまりに頼りすぎると自由という概念に逆に縛らることもあると思うので、いつでも水のイメージとして持っておくというのは良さそうですね。

身体をゆるめる系のボディワーク(ゆる体操とか、骨ストレッチとか)も、心身の自由につながりそうなので、何か自分に合いそうなのを一つもっておきたいですね。。

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