居場所を確保する。
ひとりごとを呟くスレ
これまでいろいろ書き連ねてきたとある場所のコメントで(特定の関係の話ではなく人としてのあり方が)共依存なんじゃないですかと言われて、とりあえず調べてでてきた
https://cocoronokokuban.jimdo.com/共依存と依存/
とか見たらまあ確かに、否定はできないなと…。
ただ、私の場合はここで依存相手と言っているものの対象を拡大することで、個々の人に対する依存度を下げ、自身の精神と、抱える関係全体の安定性を向上させるというストラテジーを目下採っているから、そこへマズローの欲求階梯だのそれらしい話を持ってきて、「キミのその、他人の役に立ちたいという心理はニセモノ! きちんと過去と向き合って自分を認めて自尊心を養わない限り役に立ったことにはならないし、いいことはない!」みたいな感じでバッサリ斬ってくる意見(だいたいどこを見てもそれが書いてある)を見ても、ウンとは言いかねるのよね。どっちみちそれ、具体的に何をしろっていう指針を与えてくれるわけじゃないもの。
それに自分がその人と関わらないことが双方にとってよい選択だという可能性を知らないほど、私はもはや未熟ではない。つまり、関わり続けて何かをしなければならないと考える、原始的な利他心の段階からは脱却している。
加えて、あらゆる問題の原因を自分に帰するようなことはしていない…というか、何が悪いかということを決めること自体、「因果関係の追及をここで止める」という選択をどこかでする以上、それは恣意的なものを含むわけだから、結局普遍的に正しい見方など存在しないのだ。
私の今の行動規範は、私の考える系全体の利益を最大化することであり、私自身については私以外のあらゆる要素に従属するものとして捉える。従属するものが少なければ不安定性は増すし危険な依存関係とも捉えられようが、従属する相手が人でなくもっと広い概念や団体なら、あるいは多数の人であれば、それは対外的には立派に自己と近似できるものとして機能するはずだ。そしてこの見方では私というものがなおないがしろにされていると捉える向きもあろうが、実際には行動規範そのものの設定と遵守、また何を系の一部と捉えるかという部分では、他ならぬ私自身の判断のみが作用しているのであり、従って私をないがしろにしていることにはならない。
つまるところ上に述べたような手合いというのは、彼らから見て生きづらそうだということで、彼らなりの善意から、分析はともかく、解決策としては当事者からすれば今ひとつなものを提示してくるのだと思われる。誤解のないよう付け加えるが、咎められるべきなのは理解力・想像力の欠如であって、善意そのものではない。
何かでも駄目だな。オタクだと指摘されて否定しようと必死になって早口&饒舌になってるオタク感があるわ、何ていうか…だから要するに自分でもそういうあり方が正しいと信じきれてはおらず、間違っているような感覚がある、と。
しかしそうは言っても常道を行く人間のやり方に私が従っているという姿を想像すること自体できないのでね、何と言われようとそもそもこうする以外にないのよ、今のところ。
※Eテレで見たやつのメモござるよ
こころの時代~宗教・人生~
2018年10月28日放送「“今ここ”に気づく」より
(プラユキせんせいの回)
過ぎ去れるを追うことなかれ
いまだ来たらざるをおもうことなかれ
過去 そはすでに過ぎ去りたり
未来 そはいまだ到らざるなりされば ただ現在するところのものを
そのところにおいてよく観察すべし
揺らぐことなく 動ずることなく
そを見きわめ そを実践すべし
ただ今日まさになすべきことを
熱心になせ(原始仏典「一夜賢者経」より)
気づき = サティ = 念
「今の心」と書いて「念」
※ぼくの気づきでござるよ
プラユキせんせいの学生時代の写真がテレビで放映されていた。
髪がふさふさだった。
そして私は気づきを得た。
プラユキせんせい、まゆげも剃っておられるんだね。
合掌