猫を亡くした男性のツイート、電動車椅子の踏切の事故のニュース、地雷で兄弟と右足を失った女性のドキュメント。かなしみ、はかなさ、取り返しがつかないこと、命の大切さを感じるのに、怒りと憎しみと共に殺意が現れる。脳がバグってる。
動こう。
相変わらず良くないな。
大丈夫。
いま入れてる剤には攻撃性の副作用があるんだって。へぇ。
私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識の絶えまない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、そのかわりに、私たちは死を選ぶのであろうか?私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心に止め、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかってひらけている。もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死の危険が横たわっている。
(「ラッセル・アインシュタイン宣言」より一部抜粋)
憎んでいる特定の人物を「敵」と呼ぶことがなぜか心理的に憚れる。敵と呼ぶと、相手と対峙しなければならなくなるからか、あるいは、敵と呼ぶことは相手に人格を付与することだからか。理由はわからない。
「殺意」や「殺す」は「敵」という言葉よりも激烈なはずなのに、忌まわしさを感じなくなってしまった。たぶんそれは幾度となく想像の中で自分を殺してきたからだ。何度、拳銃を自分の頭に押し付けて引き金をひいただろうか。
使う言葉に気をつけなさいと仏教はいう。
そうか、ぼくは敵役だった。
またひとり無差別に人を殺めてコモンウェルスから排除されてしまった。怒りだろうか。激情がおさまって彼は何を感じただろうか。
殺してはならぬ、殺さしてはならぬ。合法的に人を破壊する者だけが笑う。
去年1年間、読書、ラジオ、動画、らくがきなどに時間を費やしていたことは結果的によかったことなんだなと、100分de名著 ラッセルの「幸福論」を見ておもう。
決して幸福になったわけではないけれど、無限の苦しみの中にはいない。苦しみが有限、無常になったのは、剤の影響かもしれないけれど。
本当に、馬鹿みたいに簡単なところから始めるんだ。
ぼくは不良品だから叩き壊され、壊されるのはおまえが不良品だからわるいのだと言われる。
動け。
自分を変えたいとずっと思っていても、なかなかうまくいかない。でもそれでも自分を変えるには、少しずつで良いから変わりたいと思い続けなくてはいけない。
少しだけガンバロウ。
熊谷晋一郎せんせい曰く「希望は絶望をわかちあうこと」
考えすぎ。気楽にやろ。
(ラッセルの幸福論で言うところの)外向きに過ごす時間はいくらか増えているけれど、これは前向きに過ごす時間とはちがうんだろうな。現在のひきこもり生活に安住しているだけで、生活が崩壊すれば苦しみが満ちる。
Humanityという"原点H"が存在しないから前後不覚に陥っているのかな。hikikomoriというベクトルhとしては、どちらに向いているのだろう。
(きのう、数Bのベクトルの動画を見た)
ベクトルHとベクトルhのなす角θが90度のとき、内積が0になるの意味がありそう(ただのこじつけ)